Benvenuto Cellini "A Satyr" 1544/1545 |
裸体を目の前にすると、例えば肩周りだけを観察しても、そこに現れる起伏の複雑さは相当なものだ。解剖学の教科書レベルで記述されている内容が、いかにその一部を極断片的に伝えているに過ぎないかを、実感する。そして、医学解剖学ではほとんど触れられない皮下組織の影響をまざまざと見せつけられるのである。つまり、皮下脂肪と皮膚の厚みによる影響だ。また、筋が作り出す凹凸も、単純に「力んだところが盛り上がる」というだけではない。例えば、通常モデルはポーズ中は静止している。しかし、生きているからゆらゆらと揺れるし、ときにはピクッと動く。その瞬間だけに凹凸が顕著に浮かび上がるのである。自動車が動き出すときにギアを一速に入れるように、動き始めに大きく筋収縮が起きているのだ。筋の部位ごとの境界線も、教科書のように素直に見えるとは限らない。例えば、肩の三角筋と、上腕三頭筋との境界など直ぐに分かるように思われるかも知れないが、実際には平均的な皮下脂肪量のモデルさんでは、定かではない。一言で言えば両者はほとんど一体として見えるのである。皮下脂肪が相対的に多い女性ではほぼ分かれて見えることはない。下肢の太ももやふくらはぎも同様で、解剖図譜のように各筋の境界線がそのまま立ち現れることの方がまれだ。内転筋とハムストリングスなどまず見えることはない。腓腹筋が内と外で分かれて見えることもない。これらの構成筋がその輪郭を明らかにするのは、皮下脂肪の少ない人において、先にも書いたように運動の瞬間(初動時)に限られるように思われる。
とまあ、上記に挙げた例も、実際の裸体を前にすると極々小さな問題に過ぎず、膨大な「形態の事実」の大波にのみ込まれてしまうのが本当のところだ。
この波に飲み込まれることを拒み、むしろ波に乗ってコントロールしてしまおうというのが、15世紀の初期ルネサンスから見られる「芸術家による解剖学の応用」だったのだろう。しかし、それをなすことは並々ならぬ努力があったに違いない。そこには強烈な意思がなければ、なしえないことだ。よく、美術史書などには、「解剖学を応用することで人体描写に現実性を持たせることが可能になった」というように簡単に書くが、「解剖学」を理解することだけでも大事であり、「人体描写」ができるだけでも大変な努力が要り、その両者を掛け合わせて「描写に現実性を持たせる」というゴールまで到達させるのは、並大抵の事ではないのだ。しかも、ここでのゴールは描写技術に限ったことであり、芸術はさらにそこに「画題」を語らせなければならないのである。高度に完成された芸術作品ほど、その表情はあくまで自然であるから、それが生み出される過程の多大な労力の積み重なりを隠す。
私自身、人体の存在感の源泉として人体解剖学を捉えているのだが、その情報量と、実際の人体の情報量との格差に愕然とするものだ。科学という説得力と芸術という表現力とを融合させたところに、いわゆるマスターピースと呼ばれる作品たちの表現が存在している。あの目、あの技術のほんの裾の端でも良いから、掴めるような、そういう瞬間、領域にたどり着くことが出来るのだろうか。
解剖学を知っても人体を造形できるようにはならない。それは、ごく始まりに過ぎない。骨や筋の名称を知ったところで、残念ながらそれらの知識は造形上、ほとんど意味を成さないのである。だから意味がないというのではない。それらは、「あいうえお」を習うのに等しい。人体描写を説得力あるものにしたいと思うなら、解剖学は初めに修めてしまうほうがよい。そして、その基礎力を基にしつつ、実物に出来るだけ触れなければならないのだろう。結局それは、過去の巨匠たちが通ったのと似た道である。
ところで、人体の形態に関するシビアさは、医学解剖学より芸術のほうが遙かに厳しい。ただ芸術領域はそれを言語化して明言していないだけである。だから、医学解剖学書だけでは、芸術における要求を満たすことは出来ない。では美術解剖学書ならよいか、というと残念ながらそれも叶わない。なぜならそう謳っている書のほとんどが、単純に医学解剖学書を水で薄めたような内容に過ぎないからだ。つまり、現代においても人体描写に関する情報は明文化された形で手に入ることはないのである。真の意味での美術解剖学書というのを私は見たことがない。
私たちができることは、解剖学で人体の形態に関する輪郭線を知り、実際の観察を通してそこに肉付けをしていくことだけであろう。結局これが最も効率的で近道であるということなのだろう。
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