2015年4月24日金曜日
知るにはまず信じよ
ある物事について知るということはどういうことか。どのような過程で私たちはそれを知るのか。知るということはその事を信じるということだ。
私たちは、この世に生まれ出でたとき、人間社会で生活するすべのほぼ全てを知らない。やがてそれを、家族から知り、学校というコミュニティで学び、実社会で経験していくことで知っていく。
知ることが人間としての成長と繋がっているのだとするなら、良き成長には良き知る能力が不可欠であって、それはつまり「良き信じる能力」を指してもいる。世界を、社会を、隣人を知るには、それらを信じることができなければならない。
信じることができて始めて知ることができるのだ。私たちが何かを知るとき、気付いていないかも知れないが、そのすぐ前にある「信じる、という門」をまず開けている。知ることで信じられるのではない。信じることが知ることに繋がっているのである。
私たち人類は、教育を通してある一定の価値観を共有し、それによって集団の安定をはかり向上を目指し続けている。この互いの知識、価値観を共有する過程において重要なことが、互いを知り、世界を知るということにある。もし、人間以外の動物のように、信じることを知らず、本能が導くことだけを頼りにしていたならば、現在の人類文明はありえないだろう。根本的には根拠がないけれど相手をまず信じるという能力が、その先の「知る」へと導き、その知の連鎖が文明を文化を形成させるに至ったのだ。信じるというのは人類が持つ特有の、そして強力な能力であると思う。
日本人は少年期の9年間は義務として教育を受ける。その間に学んだことを全て覚え活用するとは限らないが、様々な形でその後の人生のベースとして役立っている。この、学校教育で知る学業的知識に限ってみても、私たちはまず先生を、教科書の記述を信じることから始まっている。「信じ」て歩みを進めてみることで始めてそれが真実だと「知る」。
信じることで得られる絶大なる効力を、私たち人類は経験的に、つまりほとんど本能的に感じ取っているのだろう。信じるという行為がより強調された活動として宗教も生まれたのではないだろうか。宗教は「信じる」という行為が高度に純化された活動である。
知識が大事とはよく聞くが、信じることが大事とは余り聞かない。だが、知識は信じることの先の話なのだから、本当ならまず「信じる能力」を磨く必要があるのだろう。
疑念は知ることを疎外する。「信じられない」「信じることができない」ということは、知ることの放棄を意味している。信じられない人生は偶然だけに任せられ、その世界は一向に拡張しないだろう。その人は疑念と呼ばれる閉じられた小部屋で生き続けることになるのだ。
恐れもまた疑念を生む。しかし、疑念は恐れより恐ろしいのだ。疑念は恐れの穴をより深く掘る。恐れを克服するには信じなければならない。しかし、疑念で掘られた穴に塡り込む人は多い。
「信じるものは救われる」という言葉があるが、何も宗教にしかあてはまらない言葉ではない。これは人類にとって真理でさえある。私たちの遠い先祖も、まだ見ぬ新天地がきっとあると「信じて」歩み続けてきた。私たち人類はそもそも皆「信ずる者」なのだ。
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