2016年5月22日日曜日

『変容する態、もしくは相』展を観て

 井の頭公園は5月の晴天で木々の緑が生き生きと照り輝いていた。公園駐車場から歩いて直ぐに一本裏通りへ入ると閑静な高級住宅地。こんな立派な場所の立派なお宅の中も見てみたい。そんなことを考え始める頃に展示会場の置き看板が目に入る。正に立派な場所の立派なお宅が会場だった!ツタが一面に絡まった古い和式洋館といった佇まいの玄関で靴を脱いで会場内へ。つまりは、かつての居住空間を展示空間へと改装している。

 初めの部屋に、藤原氏の立像がこちらを向いて立っている。左の窓際には銀色に輝く吉賀(よしか)氏の炎の彫刻。左奥に深井氏の作品があり、この3点がまず目を惹いた。

 この展示は3作家の造形技法が粘土を焼成し釉で仕上げる陶であることで共通している。
 釉は溶けたガラスのぎらついた反射を放つ。その性質を利用した吉賀氏の炎彫刻は銀色も相まって近づかなければ詳細な形態を目で追うことが難しい。自分が動くことで変化する反射光に炎の揺らめきを重ねている。そうであっても、近づけばそこには確固たる形態が存在していて、私はその鋭い縁が織りなす造形に目を奪われた。もしこの作品が茶色の鈍い色彩を放つブロンズだったとしても相変わらず強い存在感を放つだろう。別の窓際には白い鉱物標本のような小品が置かれている。丸い膨らみがいくつも重なった様はアズライトの様であり、触れば崩れるような白く細かな枝が無数に生えているのはオケナイトを思い出させる。そのうちの1つは真ん中に穴が開いた多角形で、放射相称の棘皮動物(ウニ・ヒトデなど)の様だ。だがもっと似ている物がある。それはタンパク質の分子構造だ。私たちの体で働くタンパク質は実に6万種類に達すると言うが、それらの実体は何かと言えば限られた数のアミノ酸と呼ばれる構成単位からなる構造体である。そしてその多様な働きは組み上げられた分子の立体構造が作り出している。その形は多種多様だが、中にはとてもきれいな対称系をしているものがあり、特によく知られるひとつが免疫グロブリンM(IgM)のそれである。分子の構成要素である原子は原子核の周りを電子が確率的に存在している。その範囲の外殻を球形として描くのが空間充填モデルと呼ばれるものだが、そうして描写されたIgMを彷彿とさせる形状がそこにはあった。実際、私は作家である𠮷賀氏がそれをモチーフとしているとさえ思ったが、在廊していた氏と話すとそのイメージの源泉は雲や樹氷であるという。真ん中に穴が開いたドーナツ型には台風とその目が重ね合わされているという。分子構造と台風。どちらも極端な大きさのものたちだが、両者は似ていた。それにしても、様々な自然現象が作家という人間を通して、私たちの感性に触れる形へと変換されることは改めて興味深いものだ。そう思えば、作家は大自然と人間とを繋ぐシャーマンのようではないか。

 藤原氏の作る”骨抜きの”人体は、それでいて大きな足で自立している。その様は決して力強くはない。骨がないのだから仕方がない。だが、倒れないのだ。白い陶に黒い釉がかけられ、つよい色彩のコントラストを放つ。もっと夕方遅い時刻で光が消えゆく暗い洋館の部屋でこの作品を見たいと思った。きっと黒は闇に溶け、白い下地が間隔を開けて青灰色に人の形を伝えるだろう。

 深井氏の作品は、今の物ではない。ひび割れたテクスチャーやくすんだ色彩、選ばれたモチーフも現在の物ではないから、鑑賞者の目には博物館や骨董店に並ぶ、もはや作家性の消え失せた”物として自立したもの”として映るのである。初めの部屋に置かれた作品は前後に平たい。屋根のような台に鹿と人間がいる。在廊していた作家に依ると、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある象牙の小品(古代メソポタミア)からインスパイアされているという。奥の和室には気につかまるオナガザル(ラングール系)の像。これも前後に平たい。つまり、どちらもが作品の観られる方向を規定している。西洋彫刻が言う多方向視点を拒否している。氏の作品はどれもが「置物」としての佇まいが強調されているが、立体で有りつつ見る方向が決められているその様こそ、床の間という小さな展示空間ではぐくまれた我が国特有の立体の有り様だったのかもしれない。事実、骨董屋へ行けば深井氏の作品のような前後に圧縮された小さな真鍮やらの置物を見ることができる。それらは平面の絵画から始まっているのは明らかで、その平面物を強引に立体世界へ引きずり出しては見たものの、側面性までの必要性は問われなかったのだ。興味深いのは、平面の時には存在しなかった裏面は造形してあることである。空白である事への恐怖。ひとたび空間へ存在したからには、何も無いわけには行かないのである。ミケランジェロの絵画を、その立体感覚から2.5次元絵画と私は勝手に呼んでいる。深井氏の彫刻はむしろそれを逆に進んでいるようで、2.5次元彫刻とでも呼ぼうか。

 素敵な洋館を後にしながら展示作品を反芻し、何か安心感、安定感を感じた。それは各作家の造形レベルの高さが基盤にあることは確かだが、それだけではない。その作品たちが放つ恒久性がそう感じさせるのかもしれない。彼らは良くも悪くも、変わらない物を作ってしまう人類の営みの永続性を担っている。

 彫刻家とは、私たち人間が持つ感性の古い部分を掘り起こして提示し続ける、そういう人たちの事だと妙に納得したのは、会場が趣きある洋館だったからだろうか。

会期2016年5月7日〜5月22日迄
会場:東京都三鷹市 スペース・S


0 件のコメント: