2016年5月6日金曜日

これからの道路交通系について

 ゴールデン・ウィークのように連休になると慣れない長距離運転からか、家族単位で巻き込まれる痛ましい交通事故のニュースが必ずと言って良いほど報道される。突然に家族を奪われる遺族の苦しみや想像だにできないものだが、加害者もその瞬間以前は一般人だったわけだ。具体的なシチュエーションは様々だが、連休で多く報道されるのは高速道路上での事故で、渋滞最後尾でトラックに追突された軽自動車が大破し・・というのが多い気がする。また、連休と関係なくとも日々起こる交通事故では最も多いのが交差点での歩行者(自転車)巻き込み事故である。それも統計では、”青信号で渡っている歩行者”の事故死亡率が最も高いと言う。
 事故のたびに、多くの悲しみと苦しみそして怒りが生まれている。交通法規を守っていたにも関わらず被害者となった虚しさはいかほどだろうか。問題は、それが「繰り返され続けている」という事実である。私たちは、そろそろ、いや改めて、そこにも目を向けなければならない。事故のたびに、被害者、加害者という札が付けられ言わば善と悪に色付けされて判断する。車は人間が運転しなければ動かない物なのだから、加害者運転手”こそが”悪い訳だ。しかし、被害者と加害者がどちらも歩いていて同じようにぶつかったとしたなら単に謝っておしまいのことだ。両者がぶつかって致命的な結果をもたらすには自動車が介在していなければならない。そして自動車には大きい小さい、重い軽い、遅い早いという要素が加わってくる。つまりこれら要素が持つエネルギーの大きさの差が力の差となり、甚大な被害を生んでいるのである。加害者運転手の運転ミスだけで、良い悪いを済ませていては同様の被害が生まれ続けてしまう。交通法規が赤では止まれ、青は進んで良いと言ったって人間はいつでも間違えるし、間違えるたびに数トンの質量が人間を押しつぶしてしまうのである。交通法規は理想を掲げるソフトに過ぎない。しかし、事故はいつも車と人間というハードで起こっている。私たちは、もっとハードに目を向けなければならない。幸い、最新の自動車には自動停止技術などが導入され始めているが、まだまだ揺籃期である。自動車を変える方が手っ取り早いのかもしれないが、それが走る道路系も再考の余地が多いにある、いや、今の道路は原始的過ぎる。誰の身近にも、歩道などない道があり歩行者の数十センチ脇を数トンの鉄の塊が走り抜けている現状がある。最も事故が起こる交差点システムもいつまで続けるのだろうか。
 いつまで「人間は信号を守る」という幻想を信じようとし続けるのか。数字が語るように「交通法規は必ず破られる」のである。それを罰金や懲罰で縛ることはお飾りに過ぎぬ。法規という”理想の教典”でコントロールなどしようと不可能を試みずに、「事故の起こりようのない交通系統の構築」を進めなければならない。道路、自動車、人間。交通事故に関連するこの3大要素で最も不安定なものが人間だ。今の交通系統はその逆で、人間こそがもっとも適応するという考えに基づいている。だから自動車学校で学び免許をもらえれば問題なくこの道路を走ることができる”はず”だと言う。年間数万人が交通事故に巻き込まれる。それは運転手のミスがきっかけである。できる”はず”だった人がそれを起こすのである。現実に目を向けて言わなければならない。人間は簡単に運転を誤るものなのだ。だからこそ、人間以外の部分から対処しなければいけないのである。すなわち、道路と車である。特に道路の変更は現実的に難しく感じられる。しかし、私たちが交通系という大きな社会インフラを安全性と共に構築していこうとするならば決して避けることはできない。そして、それは必ず遂行可能である。勿論、昨日の今日で出来上がるものではないが、ことさら難しいわけでもない。ビジョンを描き実行に移し、それを継続し続ければ良いだけのことだ。我々は誰も家族や友人、そして自らを交通被害者にしたくはない。もちろん、加害者にもだ。その為には動かなければならないのである。
 交通系を人間の良心や法規に基づく判断に任せる時代は徐々に終わりにさせなければならない。そんな不安定なものを信じて任せる時代は過去のものにすべきだ。そのビジョンの下に道路、車は再考されるべきである。













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