「情報は知識ではない」とはアインシュタインの言葉だったか。ごく当然の事を言っているように聞こえて、しかし、教訓としても響いてくる。それは、私たちが知識と思っていることが、実は単なる情報に過ぎないという可能性とその事実を示しているからだろう。
なぜ私たちは情報を知識と”勘違い”するのだろうか。おそらくは、脳内の報酬系がどちらでも同様に働くのだろう。その喜びは新しい事実を手に入れたという同一性を持っていて、それが単なる情報だろうが知識であろうが判断しないのかも知れない。
この言葉が教訓として響くのには、情報と知識の意味合いの違いはもちろん、それぞれの”働き”の価値に大きな違いがあるからである。まず情報は断片的であり多くの場合ストーリーを持たない。またそれが他者から情報として提示されている場合は、既知のものであって自己完結している。つまり、暫定的でありつつもゴールである。一方の知識は、体系立って物語性がある。その物語のピースこそが情報であって、そこから知識が編み込まれる。だから知識は解放されていて終わっていない。常に過程であり、新しいものへのスタートとなり得る。
私たちが何か新しい事象を知るとき、それはまず情報としてやってくる。初めに記したように、私たちはそれだけでも満足できる。しかし、単なる点としてやってくるそれだけでは拡がりがなく、それで終わりなのだ。すなわちトリヴィアに過ぎない。とは言え、確かにトリヴィアを集めることは決して無意味ではないだろう。事実、18世紀までの博物学はそのような態をしていた。繋がりは分からないけれども、まずは真新しい情報を集める。やがて数が多くなるとその中に関連性が見えるようになってくる。そうしてそれらを繋げていくことで新しい学問体系が生まれてきた。つまり、断片的な情報を基に学問体系を織り上げているものが知識であって、それは常に新しい未来へ向けて流動的に動いている。
すなわち、情報は「知る喜び」を純粋に与えてくれる。それは受動的で、情報がなくなれば喜びもすぐに枯渇するだろう。一方の知識には体系があり、それを知って組み立てる行為は能動的である。それは創造的ですらあり、その喜びは動き続ける限り自らのうちから湧き続け枯れることはない。
「知の喜び」を簡単に得られるのは情報である。一方、知識からそれを得るには大量の情報をまず知り、次に体系立てるという段階を経なければならない。しかし、その階段の歩み方が見えてくれば一歩進む毎に新しい段階を知る喜びが継続する。
自ら歩まず与えられ続けるのか、自ら歩んで創造するのか。両者には大きな違いがある。「情報は知識ではない」とは、そういう事も言っているのだろう。
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