2016年5月4日水曜日

痛み

 ここ数日、いや数週間体調不良が続いている。そのひとつは腰痛だが、常に疼痛があり姿勢によっては”神経に触れるような”強い痛みがある。腰痛とひとつの単語で済んでしまうが、その痛みは行動を著しく制限させるし精神的にもやる気を大きく削がれる。常に痛みがある日が続くと、それを感じずに生活できる日々のありがたみを実感する。
 しかし、それと同時にある疑問も頭に浮かぶ。「痛みがない」と「痛みがある」はどこで切り替わっているのか。健康なときは日常生活においてこれといった痛みを意識しない。しかし、その時の体は全く問題が起きていないと言えるだろうか。腕やすねに身に覚えのない小さな傷がいつの間にか付いていることがある。同様に、気がつかないけれども何らかの不具合が体内に起きている事は十分に考えられる。それどころか、身体という大きな物体が運動をしながら生命活動を行っているのに、なんらの小問題も起こっていないと考える方が無理があるようにも思う。そう考えると、「痛みがある」か「痛みがない」かは何らかの障害レベルに応じて身体側が切り替えているのだろう。そもそも、痛みは感覚で、それを解剖学的に探し求めても見つけることはできない。それは意識と似てシステム内に現れる形無き現象である。
 痛みは死そのものより恐ろしいとも言われる。尊厳死(自死の選択権)が認められている国では、末期症状で余命が宣言された人が、回復の見込みのない耐え難い痛みからの解放を願ってその権利をしばしば行使するのである。医療においては確かに急性の痛みは”シグナル”として有用であるが慢性的な疼痛はもはや不要で有害なものとされ積極的な除去を試みる。
 現代の私たちは、様々な鎮痛剤や麻酔薬を手にしており、数世代前の人々と比べれば痛みをコントロールできているだろう。しかし、それでも尊厳死という選択が認められるほど痛みから根本的に逃れることはできないのである。

 痛みは、本当に障害と共に作られるのだろうか。外傷などは皮膚内部に備え付けられた障害受容器が刺激されることで起こる、とされる。しかし、その段階ではあくまでも神経が興奮し、その情報が伝達されることである。私たちが痛みを知覚するのは刺激が大脳皮質にまで登ってからのことで、それまでの間に”あの痛み”が作り上げられている。つまり厳密に言うなら痛みは怪我した部位ではなく、対応した大脳皮質の特定領域に表現されているものなのだ(もちろんこれは主観的知覚の全てに言える)。60兆以上の細胞たちの共同体である1人の体が、痛みを感じないときは全く何の問題も起きていないなどと言えるだろうか。例えるなら、この日本(人口2億に満たない)で何一つ問題の起きない日など考えられるだろうか。きっと、何の痛みも感じないような元気な日々でも、実際に体内では無数の問題が生じているに違いない。しかし、それらは痛み知覚として取り上げられていないに過ぎない。何らかの閾値の制御機構があるのかもしれない。体内(脳内)には強力な鎮痛物質が生成されていることが知られている。それらはオピオイドと総称されるが、この存在こそが、実際には体内には痛みが常に渦巻いている可能性を示している。私たちが痛みを感じず、健康だと感じている日々は実は「痛みがない」ことにされているのだ、とも言える。何らかの障害によって「痛みがある」ときこそ、「私」という高度な複合体が外世界で動いて生きる困難さの真実が垣間見えているのかも知れない。

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