2016年5月14日土曜日

美術大学での美術教育

どんな専門領域でも、その黎明期は一定の方向も定まらない混沌としたものだ。これを反対から見れば、混沌とした状態の領域はまだ黎明期の状態にあるとも言える。

 高度な専門性が要求される技術領域ではその教育体系が秩序だっているように感じる。例えば医学教育は6年間の間に効率的に多くの知識を身に付けられるように緻密に組み上げられている。基礎医学の解剖学一つ取っても単なる名称の暗記科目ではなく、一見バラバラに見える体内構造が様々な概念によって理路整然と再構築されている事を知ることで、人体を統合的に捉えることを可能にさせる。勿論、この”学習法”は解剖学者たちが人体のしくみを知るために研究してきた結果がベースになっている。このような科学的な研究の積み重ねがまずあり、次に教育者がそれを効率的に伝達する手順を考え実践し修正を加え続けることで今のメソッドが成り立っている。なお大学の教員を見れば分かるように、実際には研究者と教育者とは明確に分離しているわけではない。                     
 一方、専門技術や知識の習得が絶対的に求められる訳ではない領域では、その教育に高度な体系化は見られない。言わば現場任せといったところだ。そして、大学における美術教育もそこに位置しているように思える。私自身の彫刻学生時代を思い返すと、そこでは実材と呼ばれる粘土・木材・石材・金属で立体を造形する基礎を学んだ。しかし、彫刻について学んだ記憶がない。「彫刻とは何か」この問に集約される様々な彫刻概念を教育機関としての大学は何も語っていなかった。我々学生は教授陣の仕事から「今の彫刻と彫刻家」を感じ取っていたに過ぎない。私個人の場合、「彫刻とは何か」という本質的問題に最も心を砕いていたのは大学時代よりも前の美術予備校時代だったと感じる。ただそれは、人生で始めてそれに意識的になったことが新鮮な記憶として刻まれているということも多分にあるだろう。

 美術大学を出たところで、学生が皆芸術家にはならない。むしろ、それは圧倒的に少数である。その事実に加えて、現在では少子化問題などから生まれる商業的需要獲得のもくろみから、美術大学の教育方針はますます方向性を見失いつつあるのかも知れない。
 「美大学生は卒業までに”芸術家”とは何かという事に自覚的になるべき」
 「いや、何を持って”芸術家”とするのかを大学が提示すべきではない」
 上記のようなやりとりを以前、聞いた。この2つの意見は、発している言葉の奥にある立場が違っているのにお気づきだろうか。はじめの意見は言わば理想論であるが、後者は”大学”から発している。つまり、後者は現代日本における大学の有り様が色濃く反映していて現実的である。理想と現実は水と油の関係性で、決して混ざり合うことはない。現実的に見れば、美大の卒業生の多くは就職するのだから、そこで”美大以外”の就職活動者に引けを取らないように、ある程度社会的な“マルチさ”、言い換えれば平凡さを維持すべきであるという物言いへと裾野が伸びている。すなわちこれは「美大へ入学したからって芸術家になれなんて美大は言いません」という宣言である。
 私はこれに違和感を感ぜずに居れない。はたして「医学部へ入学したからって、医者になれとは言いません」という医学部があるか。この宣言は専門性の放棄に他ならず、本来ならばその看板を下げなければならない。芸術家になるかならないか、医者になるかならないか、それは結局は個人判断にまかされていることで、専門教育機関はあくまでその専門家の育成を目指すことが存在意義である。だから、美術大学は、何を持って”芸術家”とするのかを提示すべきであって、学生が卒業までにその専門家つまり芸術家とは何かについて自覚的に問えるように教育しなければならないのである。

 そうであるならば、美術大学ごとのミッション・ステートメントを構築し、その実現のための方法論を組み上げることができるだろう。芸術家は個人主義者だが、美術大学も法人として個人主義者になるべきなのである。絶対的に正しい指針を立ち上げることは不可能であるが、それでも無いよりずっとよい。「まずこう進め」と根拠を持って指し示すことが重要なのだ。ただその際に、進路に1つ北極星のように教授を置くだけでは不親切である。求められるのは、体系(システム)である。例えば「彫刻とは何か」という問に対して個人なりの解答が導き出されるためには、彫刻の特有性について自意識的にならなければならない。そこに至る感覚的手続きが前提として必要である。そうした各段階の全体が体系である。これは何も「彫刻とは何か」という概念的なものに限らず、具体的な対象にも同様に割り当てることができる。例えば彫刻科であれば「人体彫刻をどう作るか」においては、まず実材について知らなければならない。そしてもう一つが人体そのものについて知らなければならない。彫刻科において知らなければならない人体の答えは「形」である。学生は人体の形をまず捉えられなければならない。捉えることができて始めて、次の段階としてそれを造形することが可能になるのだ。

 私の学生時代は、それらの体系だった指導は無かったように記憶している。教授や先輩や同級生たちとの付き合いからそのつど「点」として情報のやりとりが成されていたような感覚がある。これは言うならば混沌であり、教育としては黎明期の様相を示している。大学における高等美術教育の歴史を振り返れば、かつて近代までの西洋では、人体の見方から表現技法までが一連一様に教育されてきた。それらはやがてアカデミズムと呼ばれ自由な美術表現を疎外するものとして”敵視”され、その流れが今まで続いている。ただその流れはあくまで西洋でのことで、日本はずっと同時代の西洋を模倣することをしてきたに過ぎない。そもそも、私たちはアカデミズムそのものさえ未体験なのではないだろうか。
 私が上で述べた体系だった高等美術教育とは、いわゆるアカデミズムに近いかもしれない。しかし、その体系だけが真実であるとは断言しない点において従来のそれとは異なるだろうと考えている。芸術は自由でなければならないから、体系だった教育は適さないというのは、大学においては成り立たない物言いである。それにむしろ、芸術家以外の進路が現実的であればこそ、効率的教育は実用的になり得る。なぜなら卒業時に各自が独自の芸術論を持ち、”形態を捉える目”と造形力の獲得を自認できれば、それは自分の在学期間に価値を与え、そのまま現在の自分に自信へと繋がるだろうから。



0 件のコメント: