2017年3月22日水曜日

人格化するケータイ

 数年前に、iPhoneが発売されたときは、未来が始まる瞬間を目の当たりにしたような感覚があった。なにしろ、それまで携帯電話と言えば小さなボタンが並んでいるのが当たり前だったのに、突然、それが丸ごと消えたのだ。「あったものがなくなる」ことは、「あったものの形が変わる」とは比較にならない大きな変化である。自動車で例えれば、ガソリンから電気へ変化しつつあるけれども、それはいかにも”段階を踏んでいます”というようなゆっくりしたものだ。その過程である現在は、ガソリン車、ハイブリッド車、電気自動車と様々に混在している(更に燃料電池車も)。そのうえ、仮に今後全て電気自動車になったとしても、自動車である限りは、相変わらず4つの輪っか(つまりタイヤ)を転がして動かすことに変わりはない。これが、ある日どこかの自動車メーカーが「タイヤのない電気自動車を発売します」と発表して実際に売り出したような、そういう大きな変化を起こしたのだと思う。

 携帯電話から、ボタンという”物”をなくしたことで、突然に、ほとんど無限とも思えるような可能性がそこに現れた。形態に機能が宿ると言うが、逆に取れば、形態は機能を限定する。iPhoneはボタンという形態を無くすことで機能をその呪縛から解き放った。
 面白いのは、ボタンが消えた筐体の形である。ただ、四角い。液晶面は、作業場でありモニターである。アプリ次第で何にでもなる。何にでもなるための場は、何にでもない。ただ、電源のオン・オフなどは物理ボタンが存在している。けれども、これら物理ボタンたちは、いずれ全て無くなるだろう。形があって動く物は壊れる。そういった物理的制約下にあるものは、これから減らされていき、最終的には、穴もボタンもない四角形の板になるように思う。それは映画『2001』のモノリスを彷彿とさせる。
 先をあれこれと想像するのは楽しいが、現状はその途上にある。それでも、iPhone7現在で既にホームボタンは動かない「ボタンもどき」で、イヤフォンの穴もない。
 もうひとつ、iPhone以前の携帯にはなかった”文化”が、保護ケースだ。iPhoneは売り出されるたびにその外見デザインも取りざたされるにも関わらず、それを購入したままで使用する人は少ない。当初は、その理由は大きな液晶面を傷付けやすいなどの現実的理由だったが、今ではそれを付け替えて楽しむこともする。この筐体と保護ケースの関係性は、人体と衣服のそれとよく似ている。

 ソフトウェアの進歩は、もっと早い。そして、その方向は、”個を全体と繋げる”方向を向いているのは明らかである。知りたいことはググればいい。知りたい、情報を共有したいという欲求は人類の本能とでも言える性質だ。実際それが社会性の維持に重要なのだろう。人類は個人個人が情報を得るためのアンテナとしても機能している。それが他人とのコミュニーションで伝えられることで役割を果たす。多くの情報をストックして、巧みに編纂し、然るべき時に使用できる能力は集団の維持に役だったはずで、長老の役割はそこにあったのだろう。インターネットは、まだ長老の域には達していないが、AIが組み込まれたそれは、やがて使用者の意を汲んで最適の解を提示するようになるはずだ。現在のそれは、”気は利かないけれど物知り”な人物のようではある。いずれにしても、興味深いのは、iPhoneを通して対峙しているデジタル世界が人格化の方向にあるように映ることだ。確かに、人類は、自然界つまり私たちが向き合っている外世界を、そのままの姿で捉えない。自然に「神」という”人格”を与えることからも分かるが、そもそも、自然も人間他者もどうように認識しているからだろう。人は、全てを人として見る性質があるからこそ、自然に神を見出し、自然と対話する者(シャーマン、占い師)が現れる。こういった、言わば私たちが持つ性質は、そのままインターネットの構築に反映されるので、こちらが知りたい事に対して答えてくれるシステムは人間味を帯びるものになっていく。
 誰かにものを尋ねるとき、尋ねた相手は、私にとって知らない世界への窓であり、媒介者であり、翻訳者である。いまや、iPhoneも(スマートフォンも)同様の役割を担いつつある。それは、情報という自然を翻訳してくれる、私たち1人1人に対しての長老でシャーマンとなり得る。ただし、その依存から生まれる従属関係も忘れてはならない。その長老が果たして村民を幸福に導くのかどうか、それを判断するのは個人である。

 このように、まるで私たちにとっての他者の在り方へと向かっているかのようなiPhoneはじめスマホは、ソフトウェアの機能をハードウェアを通して使う。だからソフトはハードを通さない限り、知ることができない。ただ、ソフトはハードに機能依存していないという点は、実際の私たち動物のありようと異なる。実際に、同じiPhone同士でも使用者ごとに中身は大きく違っている。更には、通信会社によってその”能力”が支配されてもいる。この言わば、肉体と精神とが独立しているさまは、心身二元論的解釈を実現させているようにも見える。個々の魂(ソフト)は個人の肉体(ハード)に依存し限定されるが、本質的にはそこにあるのではなく、より大きな統合体(クラウド)にある。そのため肉体が滅んでも魂が消えることはない。魂が消されたくなければお布施(アカウント維持費)を支払わなければならない。


 なんだか、そんなことを考えていたらiPhoneの存在が重く感じられてきた。時々ケースから出して息抜きさせてあげようか・・。

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