2017年3月21日火曜日

冨井大裕 個展 「像を結ぶ」を観て

 新宿で、冨井大裕氏の個展を観た。個展会場のギャラリーは、マンションの一室を改築したもので、外からは全く分からず、案内などで開催を知っている人しか訪れることはないであろう場所である。その、決して新しくはないが大きなマンションの鉄扉を開けると、壁面が真っ白な空間に、作品の色彩が際立って見えた。入ってまず正面に四角く面取られた柱状の立体作品がある。それは店でもらえる紙袋を重ねて作られている。両側の壁には、ノートのページが切り取られたものがピンで留めてある。同様の作品が横並びに複数留められていて、さながら絵画やデッサンなどの平面作品のようである。入ったドアのすぐ左にも1点紙袋製の立体作品が置かれている。白い空間内に、このような既製品でそれも使い捨てられるような、一般的には”無価値”に分類する物が、作品という”価値あるもの”として展示されているので、鑑賞者としての私は、一気に自分の感受性のチャネルを切り替えなければならなかった。ただし、その切り替え作業は「無理に」でも「どうにかやっと」行えたというのではなく、むしろ自然に切り替えられたような感覚だ。何かとても自らの日常感覚を研ぎ澄まさせるような気分で、実際に、足元の床に飛び出ていた真鍮製の構造物でさえ、作品にように感じられたほどだ。そうして見ると、この空間はまるで寺院のようであることに気付く。両側の壁のノートページ作品は脇侍で、正面の紙袋作品が本尊といったところだ。この感覚は、その場に足を運ばなければ感覚することはできない。決して個々の作品を画像で見ても伝わらないリアルなものだ。

 ともかく、まず正面の”本尊”を見る。白い台の上に乗せられた大きな紙袋は目一杯広げて、本来の四角形の形を見せている。紙袋が本来の形で現れることが実生活で果たしてあるだろうか。それだけでも面白いけれど、ここではそれが縦に4段に積み重ねてある。下から2段目は横向きで、しかし袋の口はもう1つの袋が逆さに入れてあって、その底面によってふさがれている。最下段と3段目の袋は同じ種類だが互いの口側が向き合うようになっていて、その持ち手が2段目の横向き袋をちょうど挟み込んで支えている。最上段だけは黒い紙袋で、天地が逆に置かれている。この配置によって、紙袋ではあるが、開いている口は一切表面に現れていない。その閉塞性が、内面の虚の空間を隠し、まるで大きな角材であるかのような存在感さえ与えている。
 私の中で、本尊として分類してしまったからか、この作品が人体に見える。いや、そうでなくとも、人類であれば、これを人体として見るのではないだろうか。縦横の比率もちょうどそれっぽく、一番上が黒いのも頭部を彷彿とさせる。それが頭髪をイメージしているというより、体構造で頂点にある頭部は特別な部位として感じ取られるからだろう。縦に4段という構成も、上から頭部、胸腹部、腰部、脚部として分けているように見えもする。それに、紙袋という”同じ要素”を繰り返すことで、全体として成り立つというのも人体を含む脊椎動物の分節構造を思い出させるのである。
 私たちが存在している3次元空間をベクトルで示し、それに面を与えると立方体になる。だから四角形は概念で思い浮かぶ、最も単純かつ強力な3次元形状だと言える。互いの角度が直角であれば視覚的な立体感が最も明解で、それは空間認識の誤りの確立を少なくさせ、その経験は私たち人類に直線や直角を好ませる傾向を作り上げただろう。
 実際、この作品も矩形が持つ形状の力強さを放っている。しかも、紙袋であることから表面にはしわが寄り、辺の線も有機的に歪んでいる。これらが、真っ直ぐや真っ平らではない所に、生命的な乱雑さを感じ取る。また、素材の紙袋を通して、私たち、もしくは作家の日常性という生命活動とも繋がって行く。

 両側の壁にピン留めされている、切り取られたノートページのコラージュ作品に近寄って見る。ノートは、罫線もあれば格子もあるが、どれも垂直水平に付けられていて、立体作品同様に構築性が際立っている。これらの作品は、その四方に一片が1㎝もない小さな紙辺が取り付けてあって、その小片にピンが刺されている。ピンは虫ピンのような細長いもので、長さの遊びがあるので、物によっては壁から数㎜離れたようになっている。私は(この空間にいることで感覚が鋭敏にされているので!)、この壁から離れている事とピン留めの小さな紙辺にも意味を見出していた。「いた。」と過去形なのは、この後、冨井氏に伺ったところそのようには強く意味を込めていないようだったので。
 まず、ピン留めの小紙片だが、近くによると、これらの存在感がとても強い。つまり、明らかに作品のメインであるノートのコラージュが作品としてまとまりを持っているため、”それ以外”としての小紙片が反って際立つのである。それも、日常生活において、もしノートを壁に留めることがあるとするなら当然直接ピン留めするところを、そうしていないという行為の軌跡がそこにあるので、そこに作家の意志が宿るのだ。しかも、小さな紙を曲がらないようにきれいに貼り付けてある。細かい作業を背中を丸めてしている作家の姿が思い浮かんで、ちょっと親しみさえ沸く。後で、作家に聞いたところ、まずは単純に、作品と非作品部分を分けたいという事であった。確かにそれが正解というところだが、この「寺院」においては、もはやそれだけではなく、むしろ、作品と非作品の見えざる結界の現れが表現されていると読み取れる。実際、私はこれらの作品で最も興味深いのはここ、すなわち、「作品—小片—ピン—壁」で、これらによって、作品と非作品が段階的に移行しているのである。
 そして、もう1つ、壁から若干浮いていることについても、それは作家が意図しているのではなく、紙の吸湿や空気の動きで常に動いているということだ。私はここでも深読みして、壁から離れることで、紙イコール平面という既成概念から離れようとしているのだと思った。もし、これらを「壁に留められたノートの紙」と見るならば、ノート本来の”記述する媒体”の意味合いが勝ることで、この立体的存在は希薄になるだろう。しかし、これらは明らかに、「ノートとしての意味合いを持たされていた紙」として扱われ、今や空間内での存在を誇示しているのである。そのために、壁に密着してはならず(なぜならそれは、紙の立体性を弱める)、壁面との間に鋭い影を落とすことで、その裏側と隠されている壁面との狭間の存在を証明する。紙のように薄いことで、私たちの肉眼では側面の存在は捉えられず、そのため前面と影とが唐突に出会うようになり、強いコントラストを生む。そこに、フォンタナの空間概念を持ち出すまでもない。

 これら壁面の作品群のピン留めの小紙片といい、紙袋作品が置かれた白い台といい、全体の作品の置き方の構成といい、決して斬新さはない。むしろ、今時の現代美術作品の展示では見ないような、オーソドックスさである。先に見てきたように、個々の作品の置かれ方とそこに内在する作品に対する作家の態度も、とてもシンプルなものを感じる。むしろ、この”寺院”は現代におけるそれというより、ラスコー洞窟のように始原的な強さをそこに見る。ノートの紙が、人の心を反射する素材になるのである。それと、転がっている石ころが神の小像となることと、どう違うのだろう。現代人とラスコー洞窟の壁画を描いた人類とは、体構造に違いはない。彼らの感動は私たちの感動と変わりがないはずだ。かの時代の作品の素材は、どれも生活に比較的近いものが選ばれていた(もちろんいつもというわけではなく、大変な労力を払って特定の場所の素材が選ばれ、遠路はるばる運ばれることもあった)。一方、現代の芸術家は、「美術用品」を買い求め、「美術様式」にならい、「美術アトリエ」において、「美術品」を作る。現代の美術は、始まりから終わりまで「美術」というレールに乗っている。そして、鑑賞者は「美術館」や「美術書」に載っているものを美術作品として認めるのである。冨井氏の作品は、自分たちが気付かずにレールに乗っていたことに、ふと気付かせる。さらに、ただそれに気付かせるだけ(別に気付かなくともいいのだから)の押しつけではなく、日常生活とアートという非日常の壁などそもそも存在しないことを示し(と、同時にそれはいつでも作られるということも同時に示している)、何より、私たちに身の回りにアートの素材が転がっているという事実を教えてくれている。ただ、それに気付けるかどうかはまた別問題だが。

 冨井氏のバックボーンは彫刻である。だから、この展示に見られる作品の在り方は、彫刻的な要素が強い。それは、上でも述べたように紙袋の四角形であったり、浮いているノートであったりするところだ。しかし、典型的な彫刻が色彩に乏しいのとは対照的に、これらの作品は色彩が豊かである。また、作品を俯瞰してみると分かるが、選ばれている色は偏りがあって、パステルカラーもしくは蛍光色よりの鮮やかで軽い印象の色が多い。作家の好みと言ってしまえばそうなのだろうが、色彩による作家性の統一があり、また、この明るい色によって作品たちに軽やかさが付与されている。時にそれは、彫刻の特徴のひとつである量感を打ち消そうとさえしているかのようだ。軽やかで物質感さえ希薄になっていくこれらの作品は、物から情報へと重要性の重みが偏るばかりの現代によく合っている。
 また、多くの芸術作品との大きな違いは、作家の手による造形度合いの小ささである。ただこれが新しいというのではなく、いわゆる「もの派」的な作品との印象の違いを生み出しているのは、作品が訴えている事のオーソドックスさにある。それは、個々のサイズにも表れている。どれもハンディだ。作家がどのように作品の大きさを決めているのかは分からないが、どれも小さなアトリエや机の上で作れる大きさで、それが現代都会生活者の扱える空間やサイズを表象している。いや、むしろ、これからの作品は冨井氏に限らず、ますます小さくなるかも知れない。それは精神の萎縮を示しているのではなく、サイズ感からの脱却を意味する。かつて、物質優勢の時代にあっては、大きいことが優であり小さいことは劣であった。しかし、情報優勢の現代では、必ずしもそうとは言い切れない。これは情報には物質的サイズが存在しないことと関係しているだろう。情報は、それを映す媒体によって、つまり物質化する段において自由にそれを選ぶことができる。冨井氏の作品にも、それと似たサイズレスの感を受ける。

 良い本を読み終えた後を「読後感が良い」などと言うが、この展示は「観後感が良い」ものだった。その場でなければ感じることのできない一回性の強い展覧会であった。芸術は直接的に感情へ訴える強さが需要である。VR(仮想現実)やAR(拡張現実)が良く言われる現代でも、それは変わらない。現場でしか得られないものがある。芸術は常にその代表格であって、そのことを改めて実感した次第である。

冨井大裕「像を結ぶ」
Motohiro Tomii “Connecting Images”
会期:2017年2月1日(水)- 3月11日(土) 12:00 – 19:00(休:日、月、祝日)
会場:Yumiko Chiba Associates viewing room shinjuku


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