2017年3月25日土曜日

藤原彩人 展「GESTURE」を観て

 「成長した。」
 作品を鑑賞していると、変化しつつある作品から受ける印象を、他の鑑賞者にそう話しているギャラリーオーナーのやさしい口調が時折耳に入ってくる。そこだけ切り取ると甥っ子の成長を喜んでいるかのようでもある。

 ここは閑静な住宅街にあるギャラリーで、天井が高く、空間を必要とする彫刻に向いている。そこに、藤原氏の新作が3点置かれている。1点は人の身長ほどある大きな物で、後の2つはその半分ほどの大きさである。作風は統一され、上半分は人の姿だが下の残りは丸く膨らんで壺のようになっている。ただ、半身像のそれは実は壺ではなく上下逆さになった人の頭部であることは、作品の後ろへ回り込むと分かる。きっと、等身大のものにも同様の意味合いが込められているのだろう。

 どの作品も、両腕と上に突き出ている頭部から人体像だと分かるものの、腕と胴体との間に無数に絡みついた梁状の構造物によって、異様な存在感を放っている。どこか不気味さと紙一重でさえあり、梁構造に目を近づけて見ていると、古いプラントの廃墟を彷彿とさせる。純粋無垢な幼子などがこれらを見て、一体何だと思うだろう。まだそれは人なのか、そうではない別の何かか。

 等身大ほどの作品を遠巻きに見る。それは上下の2部でできている。間は分かれていて、それは焼成窯のサイズ的制約ゆえかもしれないが、それを隠さないことで、あたかも上部の人の形の部位が、下部の壺状の部位の蓋であるように見える。壺における蓋の役割とは何だろうか。それは壺という容器を閉じる部品であり、壺の中と外を物質が行き来する際の関所のようでもある。その蓋、壺の働きからすれば脇役のようなそれが、ぐいぐいと上方へ伸び出して、人の形になったかのようである。やはり、視線が長く向けられるのは上半分の人型の部位だ。そして頂点に突き出ている頭部が目立つ。だが、それは曖昧な顔の形の起伏があるだけで、目鼻立ちは造形されていない。また横から見ると、鼻と顎の突出は控えめで、そのまま緩やかに頸へと収束していく。顔の起伏が省略されていることと対照的に、目から上の頭の量はしっかりとしている。また、耳だけは形がしっかりと作り込まれている。
 今見てきた頭部と、像の下半分の壺状の部位との間の胴体部は無数の梁がめぐらされ、それらは突き出た両腕を支えている。明らかに今回の展覧会のメインはこの部位であろう。しっかりした厚みを持った梁は、それが大きな板になる部位では、歪んだ楕円形の穴が開けられている。大きな梁はまず、胴体に縦に数条あって、それに交差する横の梁がさまざまに傾いてはめ込まれている。縦の梁はまた、胴体の横へと張り出した肘へ向かって下からそれを支えている。さらに、体の前へ出して肘を上へ曲げている左腕は、その手首を保持するための支えの板が上腕部との間にいくつも走っている。
 直線的なそれらの梁は、主に曲線で構成されている有機的な壺と人体の形状に、鋭く硬い印象を付け加え、露わになった構造のように無機質で機械的な冷たさを放っている。しかしそれらは、完全に遊離はせず、わずかな歪みや曲線の切り口によって、曲線部位と調和している。実際、この梁が作り出している鋭利な光の線と、その下側に溜まる影は心地よく、また、縦梁と横板で作られるいくつもの四角い空間を眺めていると、ブリューゲルのバベルの塔の一部を拡大して見ているようでもあり、なかなか面白い。
 像の後ろ側へ回ってみると、両腕が胴体とひと繋がりではないことに気付く。腕の粘土の厚みがそのまま残され、胴体の胸部に乗せられているだけなのだ。作家はあえてそこを慣らして一体化させていない。胴体と繋がっていない両腕は大量の梁によって支えられなければならない。その腕は、本展覧会のタイトル「Gesture」ジェスチャーの通り、何らかの手振りによって自らの意志を表現しようとしている。肘を横へ突きだしている右腕などは、梁の届いていない手首から先の手がだらりと下垂し、その重さを伝えてくる。

 残りの2体の半身像も、像が持つ構造の特徴は似通っている。ただ、この2体は全身が一体構造で、下半分の膨らみは壺ではなく背中側を向いて上下が逆になった頭部である。実にミステリアスだ。こんな像が、例えば数千年後に掘り出されたら、いったいどう解釈されるだろう。ともかく、うち1体は等身像と似た仕上げの茶色で、もう1体は白い釉薬がかけられて一色にまとまっている。色だけでなく、梁の走り方も異なる。白いものは垂直、水平方向に大きく梁が付いていて、そのために、構造的に静かで不動の印象を受ける。茶色いものは、梁と横板は斜めに配置され、それが、同様の傾きを持つ両腕のラインと呼応して、あたかも立像におけるコントラポストのような視覚的効果を生んでいる。
 
 これら3点とも、腕は体幹と混ざり合わず、それは梁によって支えられ姿勢が付けられている。身振りはまぎれもなく感情表現であり、それは顔のある体幹から発するはずだ。しかし、その顔はここではもはや消えつつある。表情もあるのか曖昧で、そこからこの人物の内面をうかがい知ることは難しい。私たちの体構造において、より根源的な部位である体幹に対して、腕は付属肢として後付けされたもので、もともとは4つ足動物だった時代ではこれも移動運動に使っていたのである。人類が直立することで両腕は運動の仕事から解放され、物を掴む繊細な機能を有するようになり、さらには、その腕の振り方すなわち身振りを意思疎通に用い、自らの心情さえ表現するようになった。人の会話する姿を遠巻きに見ると、さまざまに腕を動かしている。せわしなく動かす人もいれば、おおぶりにゆっくりな人もいるし、ほとんど動かさない人もいる。その運動は、彼の心情と繋がって、言語だけでは伝えきれない何かを補おうとしているかのようだ。実際、話を聞いている方も、自然と会話と共にその身振りを視覚的に拾い、自らの内で総合的な意味合いとして受け取っているはずである。あの身振りはいったい、どこからやってくるのか。身振りは視覚伝達だから、音が無くても伝えられるものがある。もちろん、文化や時代や場所によって限定される身振りもあるが、それらを越えて誰にでも伝わるような動きもある。手を大きく広げて大きく振れば、何か注意を引こうとしているだろうし、うなだれた顔を両手で覆っていたなら、そこに何らかの消極的な状況を感じ取る。実際、身振りによる感情表現は古代ギリシアの彫刻でも採用され、アルカイック期には微笑んだりしていた彫刻は、その後身振りが大きくなると同時に無表情となっていく。その後は、彫刻において、瞬間的な感情の表れである表情を作る事は、その永続性にそぐわないことから積極的に扱われてきていない。

 藤原氏によるこれらの作品達も、表情を顔から放棄しようとしているかのようだ。それに対して、大ぶりな腕が体幹に後付けされ、雄弁に何かを語りかけようとしている。それはしかし、腕だけで動けるはずもなく、そとから梁や柱によって支えられ動かされる。きっと現実界ではこれら梁は視覚の外世界にあって見えないのであろう。まるで、操り人形か、しっかりと振り付けられた踊りのように、ほとんど意識せずとも勝手に動くそれらを支える梁はどこから伸び出ているのか、その根もとへ目を向けてみる。そこには、球根さながらに膨らんだ大きな頭部があった。高台(こうだい)に乗せられたそれはあたかも体の内外からのもろもろを一緒くたに溜め込む壺である。きっとそこに溜まったものを上からのぞき込んだとして、真っ黒く混ざり合い、判別できないだろう。しかし、その混ざり込んでしまった諸々から、さまざまな感情が湧き起こり、それに呼応するかのように、体が運動し、身振りを作り出しているに違いない。

 これらの梁は、こうして運動を生み出すと同時に、それを抑圧してさえもいる。身振りの必要性の元であるコミュニケーションは、互いの関係性が複雑になると、その自由さを失っていく。心地よくても笑えず、不快でも怒れず、いかなる状況でも無表情こそが良しとなってしまう。そんな状況では、腕の動きも無理に”はめこんだように”ぎくしゃくした、ぎこちないものになる。
 感情伝達に用いるほどの自由度を持った腕が、それ故に、意識的な自由さから抑圧されることは皮肉なようでもあるが、これら梁に縛り付けられた腕の手をよく見ると、そこには腱がうっすらと浮かび上がり、その指たちを自発的に引き上げようとしていることが分かる。腕たちはもしかすると、梁の支えからの脱却を試みているのだろうか。それどころか実は、身振りの運動がまず先にあって、それが梁を通して私たちの意識を動かしているのかも知れない・・。そんな考えが浮かぶほど、手の甲の腱は思わせぶりである。

 人体彫刻では、全身像と言って体の全て、つまり頭からつま先までを造形するものが基本的にあるけれども、それ以外に半身像では、全身を半分の大きさに作ったり、体の胴体から下半分を作らないものなどがある。そういう中で、この作品達は特異である。なぜなら、全体のプロポーションで見れば、等身大の像も半身像も、頭からつま先まで全身分の長さを持っていながら、下半身が壺や逆さの頭部など脚以外に置き換わっているのだから。逆さの頭部は、それによって、像の(そして私たち自身の)上下方向について改めて考えさせる。さらにそれは背中側を向いているのである!
 ここには、さまざまな考察、感性、試みが重層している。明らかに変化の途上である。突然変異である。とてもエキサイティングな瞬間を垣間見た展覧会であった。


藤原彩人 展 FUJIWARA Ayato Exhibition
「GESTURE」
2017年3月9日(木)- 3月26日(日)
開廊時間:午後1時ー6時
休廊日:月・火・水曜日

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