2017年10月16日月曜日

彫刻の質や評価

 会話で名が出た若手彫刻家の作品をネットで見た。その場で高評価だったので期待したが、大きな人形に過ぎなかった。思い返せば、そこでの評価も彫りの技巧を「凄い」と言っていたのだった。
 日本では技巧がそのまま芸術の価値になる。例えば絵画では「写真のような絵=上手な絵」の式が素直に受け入れられる。もちろんその価値観が間違っているわけではない。写真のように世界を描けることは人類の夢だったとさえ言えるだろう。しかしそれは夢”だった”のであり、写真機の発明がそれをこれ以上ないほど完璧に叶えたのである。それ以後、絵画芸術における価値は解放され、様々な特徴的表現の追求へと細分化された。

 彫刻でもそれは同様である。モデルにそっくりに造形できることはひとつの才能だと言えるだろう。きっとそれは写真のように、人類の夢なのだ。そしてそれは、昨今の立体スキャンとプリンターでほぼ叶えられた。後は安価で身近になるのを待つだけである。寸分違わず立体化する技術はまもなく人間の手を離れる。技巧は本質的にはそちらに属するものだ。機械でより高度に成せるものをわざわざ人間の手で行い続けることは、哀しいけれども、標本を残すような行為に近い。

 非技巧的で彫刻的に優れた作品もあるのだが、非常に評価されにくい。技巧的に優れていれば評価されるのならば、作り手もそちらに流れるのは自然な事だろう。技巧と一言で言っても様々なはずだが、我が国では”繊細”で”手数の多い”ものが喜ばれる。人が作り出す物である以上、技巧も重要なのは確かだが、芸術には主題があることを忘れてはならない。芸術において、技巧は主題と密接であるべきである。技巧だけに限ってみても、それは作品全体の構成と関連していなければならない。細部と全体は段階的に組み合わさって全体的な調和を成していなければ、個々はバラバラに主張しだす。それは一見、賑やかで視覚を喜ばすかも知れないが、薄っぺらですぐに飽きられる。それらは実際のところ、大して美しくもないことがほとんどだ。
 今から100年前に、ロダンの影響を受けた高村光太郎が、父である光雲らが作る明治木彫を否定した内容もそんな所だったように思う。しかし、そう言いながらも光太郎自身、木彫の小物を多く作成したし、また鋳造作品の展示方法やその扱いに彫刻作品を置物や小物として見ていた節もある。

 どのような作品が彫刻として優れているのかは、1つの答えがあるわけではない。表現も多様性が維持されるべきだとも思う。しかし、表面的な処理だけで、彫刻の質が語られるようになってしまうのは避けたい。表面性は無視すべきではないが、彫刻の調和的な構築性においては、最初の列には並ばないのである。
 芸術は作る者より見る者の方が圧倒的に多い。見る者の選択が作る者にも影響を与えるのならば、彫刻の見方についても広く示していく必要があるだろう。

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