運慶は、仏像に自分の名を記した初めての例と言われる。もちろん、発見されていないだけでその父である康慶がより早くそれをしていたかも知れないが、いずれにせよ最初期の事例であろう。
また、その仏像は「写実的」であるとか「リアリズム」という枕詞がしばしば付けて語られる。つまり、実際の人間の形に近づけて仏像を表現した。その写実性を助けた技法のひとつが玉眼である。人間の外見で視覚的な質感が大きく異なる眼を、いつも光を鋭く反射させる水晶を用いて表現した。それらの理由から、仏の存在を人間存在により近づけたという意味合いで語られることが多い。
八大童子像などを見ると、色彩が状態良く残されているので、作成された頃の像は全身がビビッドに彩られ、それが破綻なく彫られた形状と相まってある種の完璧さを持っていただろうと感じられる。しかし一方で、完璧に仕上げられた像でありつつも、現代人が言うところの「写実的」とは違うことも分かる。玉眼が入っていようとも、これらの童子のような少年が実際にいるようには感じられない。露出している肉体部分の表現を見れば尚のことそう感じる。その身体は決して現実の人間のようには表されていない。仏像の決まりに則った表現である。運慶仏が写実と言われるのは無著世親のインパクトの大きさ故だろう。それどころか、八大童子像の特徴ある顔などは複数の像を統一化し、フィギュア(人形)のシリーズのようでさえある。像が固有のキャラクターを主張し、かつそれが”現物”のように振る舞い始めると、皮肉のようだが置物化してくる。像そのものが愛玩の対象へと変化していくのである。仏像が像として愛でられるようになることは、もはや物を物として愛玩されるようなもので、これは置物である。例えば鎌倉時代の仏像には衣を実際に着せ替えられるものもあるが、そういう像の扱いを西村公朝氏は「彫刻的本質から遠ざかる行為」だと指摘した。
仏像はそもそも現実の人間の形を移して作られ始めたのではない。それは象徴であり、概念に人の形を割り当てた存在とでも言えるものだ。もっとドライに言えば、仏像そのものはあくまでも像、つまり”仏の形をした物”に過ぎない。信者は、その“物の形”を見て”仏そのもの”を自らの内に想像する。そう捉えることで仏像は物ではなくなり、仏そのものとして捉えられることになる。
運慶が自ら仕上げた仏像内に自分の名を記したという事は、作家自身がこれは物に過ぎないと宣言しているのに等しい。仏像の内側の空洞に水晶などを収めたりした事も同様の心理が伺える。内側に納入されたものが”仏の魂”であるとするなら像は容器に過ぎない。このような、仏像を参拝する大衆との”温度差”はしかし、あって当然のものだ。運慶ら仏師はその形を作り出す側なのだから。彼らは言わば信仰の翻訳者である。彼ら仏教芸術家がいなければ、我々は仏の世界を視覚的に共有することさえできないのだから。
運慶は、仏像を人間に近づけたというよりむしろ、仏像を仏そのものと思い込まず単なる物であると宣言した初めての仏師である。そうして信仰対象と像の間に区切りを付ける事が表現の幅を拡げることに繋がり、その裾野は仏像の置物化にも伸びていくのである。
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