化石研究者の発掘現場をテレビ番組が取材していた。今までほとんど発掘が行われていない砂漠の辺境地だが、めぼしいところは既に発掘されていた。それは盗掘だと言う。化石の採掘は国レベルで管理していることが良くある。それゆえ、許可なく掘れば盗掘となる。現場を前にして研究者は憤りを露わにしていた。盗掘者は乱暴に掘り出してお金になる頭部などだけを持ち去るのだと。
確かに、許可なく採掘するという違法行為だが、一方でその現場を映像で見ると、周囲数100キロは誰も住んでいない砂漠の真っ直中である。おまけに、歩いていればそこら中で化石が落ちているような環境で、ここにいたら「取っちゃだめ」という決め事など意味がなくなるだろうとも感じる。周囲数100キロは誰もいない砂漠の交差点で、信号が赤だから止まって待ちましょうと言っているような感覚。
無数に埋まっているであろう化石の産状の中でわずか数平方メートルが持ち去られてどれほどの実質的ロスが生じるのだろうか。それよりも、”多くの手間と手続きの果てにやっとたどり着いたら、気ままに来たであろう盗掘者に先を越されていた”という悔しさこそが本音なのではないかと感じた。
確かにまれにしか産出しない化石もあって貴重であろう。ただ、”化石は古生物学の所有物”であることが前提であるかのように見せられると、若干の違和感も感じる。始まりは好奇心から拾い集めた生物の痕跡を学術領域へと高めた歴史的経緯は偉大だが、その管理権力が大きくなって採集や所有の自由まで失われることには抵抗を感じる。
化石に限らず、遺跡などの多くが盗掘に合っているという。「盗掘」という言葉は後から来た者が付けた呼称で、始めに見つけた者にとってそれは「宝探し」だったはずだ。盗掘者は、それが金になるかの判断だけで後先考えないので現場が荒らされる。結果、貴重な”情報”が失われる。しかし、発見されなければ情報そのものも無いと言えるのだから、失われたと言うのは妥当ではなく、せめて「(取り分が)減った」とすべきであろう。いずれにせよ”始めに見つけた者”を盗掘者と呼ぶのは、先を越された悔しさがにじみ出ている。
古生物学にせよ考古学にせよ、新たな遺物を見つけるのは、圧倒的に非研究者のはずだ。彼らが見つけたならば、その物にどのような価値を見出すかは、本来は見つけた者にあっても良いのである。
中国では古来、化石を竜骨として粉末にして薬にしていたそうだ。神話に登場するような怪獣も化石からインスパイアされたのではないかとされる物もある。化石は遺跡とは違い自然産物である。そこにどのような価値を見出すのかは本来は自由である。竜と言っても良いし、薬だと言っても良いし、怪獣の骨だと言っても間違いではない。
今回の番組のように、古生物学の権威が「盗掘だ!」と憤慨するのももちろん間違いではない。ただ、その価値観だけが絶対のように、当然のように放送され受け入れてしまう「価値観の固定化」の浸透をふと感じたという感想である。
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