2018年7月29日日曜日

ミケランジェロと解剖学

   28日(土)は関東地方へ大型台風が近づく中、新宿の朝日カルチャセンターで「解剖学的に観るミケランジェロの人体表現」と題した講義を行った。天候が荒れる可能性があるにも関わらず、多くの方が聴講に来て下さった。同じ興味を抱く者として、芸術に対するその情熱を嬉しく感じる。
   この講座は、上野の西洋美術館で開催中のミケランジェロ展を意識している。ミケランジェロの人体造形には、人体解剖の知識が存分に活かされている。神の如きの半分は解剖学が担っている。それほどに大きな要素であるにも関わらず、この展覧会ではそこに触れていない。サブタイトルに「理想の身体」とあるように、彼が生きたルネサンス期の最たる、そして理解しやすい特徴である、古代との表現の連続性(およそ1000年の隔絶があるにせよ)に焦点を当てている。それゆえ講義では、彼の芸術がある側面において古代を凌駕することを可能にした、この当時最新の科学(的手法)である解剖学との関係性に焦点を当てた。


 ルネサンスの解剖学は、現代よりも自由だった。皮膚を剥ぎ取った内側に現れる構造は隠されていたもう1つの大自然の組み立てである。それをどのように見て、捉えて、認識するのか。芸術家が執刀するとき、それは芸術家に委ねられた。結局はそこなのだ。ミケランジェロもレオナルドも、そしてヴェサリウスも解剖をした。それぞれが見た内部構造は、それぞれ異なっていたのである。医学は体系化することで知識の均一化を志す。しかし芸術は違う。均一化した芸術は現代ではあり得ない。つまり、本質的な意味での、美術解剖学というのは成り立ち得ないのだ。解剖学も結局は、人体という自然の見方であり、その見方の革新性こそを重んじる芸術では、それぞれが開拓することが求められる内容なのだ。ミケランジェロが解剖から何を得たのかはレオナルドのような手縞がないので具体的ではないが、彼の作品を見れば重要な点はほぼ伝わる。ミケランジェロ的解剖学は彼によって、彼だけのために構築されたのである。もし、ミケランジェロ的解剖学たるものが、彼の後にまとめ上げられたならどうなるだろうか。それは彼以降おとずれた人体の捉え方の潮流であるマニエリスムを見れば大体は想像できる。つまりは、そう上手くいくとは思えない。体系としての「美術解剖学」が存在しないのは、そういう根本的性質に起因しているのだ。

 解剖学と芸術家との関係性において、重要な事実はこういうことだ。すなわち、解剖学がミケランジェロの芸術を引き上げたのではなく、彼の芸術性が解剖学を最大限に活かしたのである。

   

2018年7月26日木曜日

不思議な話

   少し前の雨の日、勤め先の大学に着いた学生でごった返した学バスを降車して、階段を数段上がったところで後ろから声を掛けられた。振り返ると傘も差さずに女子学生がいた。
「すみません。先生、ですよね。」
私の格好からそう判断したのだろう。聞くと、バス内で私がスマホで読んでいた本が興味深いからタイトルが知りたいのだと言う。そのタイトルを表示して見せると、自分のケータイで撮影して学生は小雨の中を去って行った。混んでいる車内とは言えフリックで流し読みしていた小さなスマホ画面の文を良く読み取ったものだと思った。またどうせなら、どの部分を面白いと思ったのかを聞けばよかったとも思った。
   ともあれ、話のネタとして教員室で助手さんに話すと、そんな事は滅多にないと。幽霊ではないですか、とまで言う。そう言われて、かつての体験を思い出した。

   数年前の雨の夕刻、傘をさして交差点に差し掛かった時。信号はあれど車通りも人通りもない。赤なので止まると、それまで気付かなかったが道路の反対側に老婆がいて、傘もささずに私のほうへやってくる。そして、私を一心に見上げつつすがるような早口で、
「たばこをくれないかね。ね。一本でいいから、たばこをくれないかね。」
   交差点のはす向かい角にはタバコ屋があるが閉まっている。私は吸わない。困ったが、信号が青になったので、持ってませんと断って早足でその場から去った。この交差点は今でもよく通るが、その老婆は後にも先にもあの時しか合っていない。
   この事を人に話すと、それは幽霊だと決まって言われる。

   自分では明らかな実体験にも関わらず、後になって思い返すと奇妙だなと思うことがある。さらに話して聞かせた人から、幽霊話だと言われ続けると、不思議なもので自分でもあれはもしかしたら・・と思えてくる。

   奇妙な体験は他にもある。
   これも数年前だが、車で高速道路に進入しようとした時、右カーブの左車線を走っていると、カーブの壁で見通せない先から唐突に右車線を車が一台こちらへ向かってきた。逆走である。その車は自分の間違いも気付いていないような普通の走りですれ違って去って行った。あの時右車線を走っていたら正面衝突していただろう。
   また別の時、高速道路の本線に合流して間もなく、自分の左側を走っている車が突然反時計回りにスピンし、一回りしてそのまま何もなかったかのように走って行ったことがある。
   これらも、今思い返すと、何か夢を思い返しているような気がしないでもない。

   こんな事もあった。
   遠い大学生時代。一人暮らしの部屋のドアベルが鳴ったので戸を開けると、自分と同じくらいの歳の男性が立っている。
「こんにちは!僕の踊りを見てください!」
そう元気よく言ったかと思うと、自分で奇妙なリズムを口ずさみながら、初めて見る振り付けで踊り出した。あまりの唐突さに、ただ見ているだけだった。多分、せいぜい30秒くらいだだったろうが長く感じた。やがて踊り終えると呆気にとられている私に、
「ありがとうございました!」
と深々とお辞儀をして、小走りで去って行った。彼が去った後も今起こったことが何だったのか分からない。どこかの物陰でテレビ局が隠し撮りでもしているのかとさえ思ったほどだ。

   これも大学生時代。やはりドアベルに応じてドアを開けると、何と小さな子供が1人で立っている。
「はじめまして!僕は◯◯って言います。小学一年生です。僕と友達になって下さい。」
驚きつつも、よろしくねとか何とか言い返したのだろう。彼はお辞儀をして帰って行った。

   また、別の時は、部屋に帰ると押入れから物音がする。戸を開けると、奥の暗がりから2つの光る眼がこちらを見つめている。大きな猫だ。外の戸を開け放して何とか追い出したが、どうして入ったのか未だに分からない。

   こんな風に、ちょっと奇妙な記憶は誰にでもあるだろう。時が経つと記憶は物語のような体をしだす。
   おかしな夢—それに没頭している時はおかしいとは思わない—を見ている時に観測される脳波は起きている時と同じである。だから、なかなか起こらない体験は夢のようだと言えるわけだが、それは反対に、実体験と夢は変わらないとも言える。
   夢は覚めて初めてそうだと気付く様に、この現実と信じる経験が、次の瞬間に覚めないとも限らない。

2018年7月16日月曜日

技術と芸術

   彫刻における写実や具象表現と言うと、それは写真のように対象を正確にそのまま写し取るもののように考えがちだが、そうではない。対象と同じで良いなら、それをそのまま型取ればいいのだ。そのままを型取ったように見える彫刻でも、実際の人体と比べれば多くの点で異なっている。何が異なっているかを一言で言えるなら”強調”だろう。ある起伏はより大きく、別の起伏はずっとささやかなものへ。そうして、形態は実物より強調され、それが作家の主張となり、鑑賞者の感性と共鳴することで心を動かす作品となる。
   とはいえこの強調は、芸術的感性と言われるような高尚なものではない。恐らく、人間の視覚認知の仕組みに備わった感覚の閾値を下げるような行為に過ぎない。だから、これだけならば、いずれ遠くない未来に人工知能で模倣可能だろう。
   いわゆる芸術性とは、この強調の先にあるものだ。そしてこれは、誰かに教えてもらえるものではない。なぜなら芸術性の源泉は自分自身であり、もしそれが新しい芸術ならば、今まで地球上に、宇宙に、存在していなかったのだから。
   
   技術と芸術は時に似ている。実際、明確に切り離せるものでもない。ただ、教え伝えられるか否か、で捉えてみるとある程度明確に線引くこともできる。そして、体得しようとするものが技術であるならそれは効率を考えて進んで良いものだろう。なぜなら、芸術をするにはひとりの命は短すぎるのだ。

2018年7月9日月曜日

告知 東京造形大学オープンキャンパス2018

  来たる今週末の7月14日(土)と15日(日)、八王子の東京造形大学でオープンキャンパスが開催されます。オープンキャンパスとは、その名称通り大学を外部へ解放する行事です。大学の構内はどうなっているのか、科目ごとにどのようなことを学んでいるのかなどを一般の方が体験することができます。進学を考えている方はもちろんのこと、単純に大学内を見てみたい方でも入場料など掛からずに体験できます。大学祭とは異なりますが、例えば彫刻科の体験授業/ワークショップでは、実際に指導のもと小品を作成し、それをおみやげとして持ち帰ることができます。また、学生の作品も多数展示されます。

   初日14日の午後は、彫刻科にて着衣モデルを見ながら鉛筆デッサンのワークショップを開催し、私は人体構造的な視点からアドバイスをいたします。普段授業で使用している、粘土で筋肉を付加した全身骨格模型も展示します。

アドバイスする舟越先生 (昨年)
   そして、実はこれが告知のメインですが、本学の客員教授である彫刻家の舟越桂先生も直接指導されます(!)。また普段未公開のデッサン帳や版画の原画の数々が先生のアトリエから運ばれ展示されます。これは作家の創作の秘密に迫ることができる貴重な展覧会とも見なせるほどです。この他にも、どの美術館にも画集にも収められていない貴重な習作なども展示されるかもしれません。

   ワークショップは、この他にも実材(石材、木材、金属)のアトリエでそれぞれ開催され、自作を持ち帰ることができるものがあります。
   また、2日目の15日(日)に開催される塑像ワークショップでは、イタリアの彫刻家ジャコモ・マンズーの実作に“触れながら”制作を体験する興味深い内容となっております。普段は決して触れることはできない芸術作品に、作品保護のため手袋着用しますが、指先で触れて凹凸を体験できる非常に希な機会です。


 美大は特殊な学校です。ここで学ぶ学生たちは、私たちの日常を取り巻く直接的な経済の枠組みから離れているように見えます。キャンパスが住宅街から離れているこの大学では尚更その特殊性が強調されます。その一方で、彼らは街に普通にいる若者と変わらないように見えます。アートは本質的に非日常ではありません。それはむしろ、ふと1人になったときの内省のように私たちの深い部分に根ざしているものでしょう。彼らは、文明による速い時間の流れの中にありつつ、個々のリズムを見出そうとしているかのようでもあります。そうやって彼らはアートという人類活動における根源的領域を担おうとしているのです。美大は、そのような若者たちを指導する現場です。大学とは言え、机と椅子が並ぶ講義室ばかりではない、クリエイションのために誂えられたその特殊な空間も是非、ご覧下さい。

今回(2018年)の様子



   詳細は、東京造形大学のサイトからご覧ください。

美術における人体構造学


   最近では、人体の内部のつくりについての学問を「解剖学」の呼称にまとめることをせず、「人体構造学」と呼ぶことも多くなった。とは言え、一般的な認知度では相変わらず「解剖学」呼称の独り勝ちであることは、書店に並ぶ本のタイトルを見ればわかる。ではなぜ、大学の講座名や講義名では「解剖学」と呼ばなくなってきているのか。それはこの単語が持つ本来の意味と、行われている実質的内容との距離が開いてきたからであろう。解剖学は読んで字の如し、人体を切ってばらしながら探求するという意味合いがある。解剖学を行うには解剖実習室と解剖道具そして何より死体が要る。しかしながら、現代では人体についての探求は、必ずしもメスとピンセットで切り開かなければ分からないものばかりではない。放射線や磁力、超音波を用いることで切り開くことなく体内を見ることが可能であり、しかもそれらを立体的に見たり、触れる素材として出力することももはや特別ではない。これらのように、人体を刃物で解剖せずに、人体のつくりについて学び研究するのであれば、血なまぐさい印象を纏う「解剖学」の文字は使わずに「構造学」を用いる方が内容に即していると言える。ただ、構造学という響きには、人間という生物が持つ柔らかな分からなさをも払拭して、どこか機械的で冷たい趣きがある。命ある人間も、その構成へと分解されるとそこには生命現象のまとまりは見えなくなり、物理化学的な現象の連なりがひたすらに連続しているばかりであるような。もちろんそれが間違っているわけではない。我々人間にとって対象の意識的理解とは理解の解像度を上げること、言い換えればピントが合っていることであり、そのためには対象に近づかなければならない。そして狭窄した視野の両隣りとの関係性を明確に捉えなければならない。「近づき、解像度を上げる」事に情熱を向けるのは、私たちが情報の多くを視覚から得ている事と関係しているだろう。
   しかし、細分化されたものはその階層での関係性で成り立っていて、それがそのままより大きな階層との関係性に連続していくとは限らない、いわゆる創発的性質がある。これが、理解を助けると同時に全体性を分断させる。それは仕方ないことではある。自分の日常と宇宙の進行の連続性を統合的に感じながら生活するのはなかなか難しい。さっきこぼしたコーヒーと白鳥座のブラックホールが関連していると考えるようなものだ。そうは言っても、自分の存在以上に目を向けるよりは、ずっと意識しやすいはずだ。自分という限定された物質内での出来事だと考えるなら。
   個人の階層から始めるなら、器官系、器官、組織、細胞、細胞内小器官、分子と階層を降りていく。私たちがものを食べて、それが吸収され、やがて自分の一部として役立つ過程は、この階層性の一往復に相当することが分かるだろう。階層性は層を跨ぐのだから、高さの概念である。もう一つ、同じ層にあっても横の概念がある。例えば器官系のひとつ循環器系ならば、その名称の元である循環現象を生み出す心臓を「親」に見立てることができよう。その拍動がなければこの器官系の存在意義がないのだから。そうして一方通行の血流が起こることで順序が作られる。心臓から出るのは動脈で帰るのは静脈という大原則の元、肺循環(機能血管系)と体循環(栄養血管系)という2つの循環が生み出される。これら同じ階層内にある機能的な横の連なりの概念を分かりやすく「親子関係」と呼びたい。親子関係の世代の異なりが階層の概念と結びつきやすいかもしれないがそうではない。これは影響力の主従関係のことで、子は常に親に従う関係性を持っている。循環器系の例で見れば、動静脈の区分けなどは親である心臓の配下にある子だと言える。これは別の器官系例えば運動器系でももちろん言えることで、この系の仕事が主に機械的であることから、より分かりやすい。腕で例えれば、指の動きは掌の動きに従い、掌は前腕に従い、前腕は上腕に従う。つまりここでの最上位の親は上腕となる。これは、3DCGのモーション付け(リギング)では以前からある概念で、これを適用したIK(インバース・キネマティックス:逆運動学)はアニメーターの作業を感覚的かつ迅速なものにしている。
   ここまで示してきた階層性や親子関係は、理解の仕方つまり情報の分類整列だと言える。人体で行われている生命現象は全てが関連した壮大なエコロジーとも言い得るものなので、他と関連しない局所的視点の知識だけでは、トリビアとして楽しいが、あまり意味をなさない。これを知る過程とそのための組み立てを体系と言う。つまり、知り方の順序である。現代では、知識だけならばインターネット上に十分転がっているだろう。しかし、そこには体系がない。その様は、情報の広大な草原のようだ。どこへ向かっても何か見つけられる。しかし、それが最善の道かは分からない。ネットによる情報の獲得が用意になってもなお、教育機関が存在し、そこへ人が移動して教え学ぶのには訳がある。そこには道があるはずだからだ。

   美術系学校で人体構造を教えているが、その全てにおいて、絶対的な時間不足が生じている。時間が短いと何が起こるかと言うと、体系が失われるのだ。それは3時間の映画を3分で語るのに似ている。それは重要箇所を点として提示するだけになる。確かに、「上腕二頭筋は上腕筋の上に乗っている」と聞けば一つ知識が増えた気になる。しかし、これが造形の現場でどれだけ役立つだろう。短ければ短いなりの伝え方があるかもしれない。確かに体系的理解には膨大な構造知識も密接である。ただ、医学体系で組み上げられた現代の体系に縛られなければ道はあるかもしれない。


   解剖学を芸術に応用した最初期の例として挙げられるレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図とメモを見ると、その斬新さに驚かされる。実際、それらのいくつかはずっと後世にならなければ認められなかった。その先見性の理由のひとつとして、レオナルドが既存の知識体系を知らなかったからではないかとも言われる。それに加えて、レオナルドが経験を師とし、自分を信じたこともある。彼の手稿には、医学体系に縛られない人体構造の捉え方が示されているのだとも言えるだろう。16世紀以降、人体構造は紛れもなく医学によって推し進められ、知の敷石が順序立てて並べられてきた。それと同じくして平行的に進んできた芸術における人体表現とその参考的知識体系としての美術解剖学は、いつしか、発展した医学と関連してその敷石の上を歩むようになったように見える。
   500年を経たいま、改めてその序章を見直すことで、芸術に立脚した人体構造の見方への根源的な指針が見つけられるかもしれない。そこから、従来とは異なる、もう一つの隣り合った人体構造学が始まらないとも限らない。そうなれば、やがてそれはとなるだろう。