本を分解してしまう。本を購入して先ず最初にすることはカバーを取ることだ。カバーが付いていると読む時に本が上下にずれて煩わしい。著者の情報や価格などカバーにしか書かれないこともあるのだが、読む時の煩わしさが優って結局は取り外す。カバーは人の外着のようだ。自分を包み込みながら、それが何なのかを表現し、手に取ってもらうアピールも兼ねている。だから、専門書のように値段が張る本になるとカバーも凝ったものが多い。そういうものは紙質も厚くて良く捨てる気がひけるのでしばらく取っておくのだが、いずれは結局捨てる事になる。
専門書だと、表紙と裏表紙が硬い厚紙のハードカバー版も多い。これも本によっては切り取ってしまう。硬い表紙だと手に持った時に曲がらず板を保持しているようで疲れる。硬い表紙を開いたところに刃を入れて切り取るのだが、ひとつながりの背表紙も無くなるので、いかにも作り途中と言うか、もしくは壊れかけのような見た目になって、書籍が纏っていた威厳はいっぺんに失われる。しかし、背表紙が妨げていた折り広げが解放され、それがしなる紙葉の束と相まって保持しやすさは格段に向上する。硬い表紙の無い書籍は、紙の厚い束のような物なので、棚に立てておくと簡単に自重でひしゃげてしまう。物としての寿命は確実に縮むだろうが、読んでいるうちにページが取れてしまうというような事は今まで無い。表紙はあくまで出来上がった書籍にかぶせる下着のようなものだ。
雑誌は読むページだけを切り取る。厚い専門書のいくつかは、章ごとに切り分けてしまったが、これは持ち運ぶのに便利で、医学部学生のアイデアを参考にした。本によっては、必要ない情報の章やページがあるので、そこは切り取ってしまう。
書き込みや線引きも多くするのでペンを手元に置いておく。もちろんそれらは、読み返した時のためなのだが、最近は読んだことの記録に過ぎないというか、犬のマーキングに近いような気もする。年齢とともに、読んだ事が頭に素直に入らなくなった。そのおかげで、毎回新鮮なのだが、そこに書き込みがしてあると、忘れていた過去に再開したような感覚がある。今考えているような内容のメモ書きを見つけて、その日付けが10年前だったりすると、停止している自分に唖然とする。付箋も多用する。だんだん増えて付箋だらけで返って読みづらいという逆転現象に陥ってから抑えるようにしている。久しぶりに開く本などで用済みの付箋を剥がしていくのは気持ちが良い。
先日立ち読みした本で、養老孟司先生が本のページは破ってしまうと言っていた。切るのではなく破るというところがすごい。した事がある人は分かるだろうが、本のページをきれいに破り取ることは非常に難しい。ただ引っ張ると根元から取れるが、雑誌などでは繋がっている反対側のページも取れてしまう。それを気にして力加減を誤るとページ途中から切れる。養老先生が破ったページを見てみたい。
朝カルを受講頂いている方が、本は2冊買って1冊はばらして読むと言っていた。本は買ったままで読まなければいけない訳はなく、自分のスタイルがあって当然なのだ。
グッゲンハイムのジャコメッティ展には、彼がボールペンでデッサンを描きこんだ新聞紙や本も展示されていた。中にはエジプト彫刻の大きな写真集もあって、その解説ページの広い余白に写真の彫像を模写しているのだ。白い余白は描ける場所。確かに高校生の頃は教科書の余白はそう見えたが、画集の余白に模写しようと思ったことはない。目的と対象との関係について、その重要性の比較について、ジャコメッティのボールペン素描を時々思い出す。書籍を物として大事に扱う事と、分解して書き込んでしまう事の間にも同じ比較が横たわっている。
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