2010年7月21日水曜日

頭と頚

芸術における人体表現で、肖像というジャンルがある。肖像において一義的に重要なのはそれが誰かということだ。どこの誰でもない肖像というのは元来存在しえない。しかし、芸術家はそこに自身が持つ芸術的信念や技術を反映させることで、それが誰であるかは一義的には重要ではない、芸術作品として独立しうる物にしようとする。そのように、芸術的な側面を強く押し出されたものは、肖像と呼ぶよりも頭像や首像(しゅぞう)などと呼ぶ方がしっくりくる。
首と頭部という体の一部を切り取って表現しても成り立つというところに、我々にとって顔がいかに重要なのかが分かる。

首像において、頚は重要な部位である。頭と体をつなぐこの部位は、明確なランドマークがないから簡単なようで難しい。ここをないがしろにして作られた作品は頭の所在がうわついていて見るに堪えない。
生体としても、頚は重要な部位だ。頚が固定されてしまえば日常の動作が著しく阻害されるし、かといって、可動性の為に細くなっている故に弱く、様々な外傷を負いやすい。この細い幹の中には脳と体を繋ぐ重要な神経も通っているし、脳へ血液を運ぶ重要な血管も浅い部分を通らざるを得ない、言わば急所である。
頚は、私たちが水中から陸へ上がってから獲得した部位だ。だから頚がある魚はいない。頚を獲得したことで、いちいち体全てを動かさなくとも、特殊感覚器がまとまっている頭だけを動かせるようになった。
この頚が、魚で見るとどこにあたるのか。腕は胸びれと対応するから、頚は魚のエラと胸びれの間が細く伸びた感じである。この時エラは上下に分けられてしまったから、今でもエラの名残が、頚の位置と心臓の上あたりの両方にある。魚を基準にして頚と体を区分けするなら、心臓の乗っている横隔膜あたりまでが頭だから、心臓はアゴ下にあって腕は頭から生えているような感じになる。

芸術では、胸像という区分けもある。字の如く、頭から胸あたりまでを表現するのだが、上記の区分けで見れば、これはまだ頭の範囲であるから、魚から見ればこれも頭像となるのだろう。

2010年7月6日火曜日

野生の美 内蔵

存在の調和が取れているものは、概して美しさを持っている。 そして、生き物のそれは「野生」ほど強く、飼い慣らされたものは(人為的な美しさはあれども)、それが弱い。
実際、家畜化された動物は、保護によって不要になった機能が退化して、そこに醜さが見られる。分かりやすい部分では、歯並び。野生動物の歯並びは非常に美しく、また、虫歯などもない。これが、家畜やペットのものになると、ガタガタで歯石だらけとなり、虫歯や歯槽膿漏にもなる。この症状は人間と同じだ。人間は、社会化という形で自己家畜化を進めたと言われるが、骨格の変成からもそれが伺えるのである。
他に、頭蓋底の形状なども人類のそれは野生動物と比べると、落ち着きがない。ガタガタしている。
目立たないけれど、腕や脚などの運動器にも同じような変化はあるのだろう。要するに、これら変化する部分は、体が外世界と関連しある部位なのである。体は本来、厳しい外世界に対応するように長い進化の時間をかけて作られた。それとバランスが取れるようになっている。しかし、家畜化により本来の性能が必要とされなくなりバランスが崩れ、それが様々な障害や「醜さ」として見えてくるわけである。言わば、300キロで走り続けるように作られたレーシング・カーを街乗り車として使うような強引さがそこにはある。

これが、内蔵になると見え方が変わる。内蔵、それも消化器は、食物の変化という形で外世界の影響を受けるが、それは運動器と比べるならわずかなものと言える。それに、食物が消化され栄養が吸収される過程そのものはなんら変更はない。その意味で、内蔵は家畜化されるか否かでの変化が少ない部分であろう。また、腸など一定の形態を持たないせいもあるだろうが、”内臓は家畜よりも野生のほうが美しい ”とは言えない。内臓はまだ野生を保っていると言えるのかも知れない。

内臓には調和による美を見いだすことが出来る。生きている状態での腹腔内が仮に透視できたとしたら、色鮮やかで張りがあって綺麗にまとまり、一定の調和をもって活動しているさまが見えるだろう。 そこには、外見からだけでは決して知り得ない、もう一つの色彩と量感の美があるのだ。私たち皆が持っている、野生の美である。

2010年7月1日木曜日

解剖学への興味

解剖学に興味を持ったのは、遠く大学生の頃。美術解剖学の講義の名前、その「解剖学」というフレーズに何か惹かれるものがあった。そう言う人は少なくないと思う。
決定的なのは、2年生の頃の解剖見学だった。その日の朝と夕方では世界が変わってしまった。もう、知る前に戻れないという事実を眼前にして、興味本位で見学した行為を後悔さえした。しかし、その時にそっと心に結わい付けられた解剖学と繋がる興味の糸は外れることがなかった。

解剖学の面白さは、じわじわとくる。しかも、面白さに段階があって、それぞれの興味範囲でも楽しめるようになっている!
自分の経験を元に考えると、初期段階は、骨だ。やはり、カラリと乾いているし、そのまま置いておける身近さも手伝って、その形状にまず惹かれるのはもっともである。
骨は、まもなく連結した「骨格」への興味へと移るだろう。一緒じゃないかと思われるかもしれないが、単独の骨と連結した骨格は、全くと言っていいほど興味所が違う。骨格では、関節の可動や、連結した骨同士によって意味をなす構造などが見所になる。
骨格に満足すると、そこに付着していた筋肉が気になる。それが次段階だ。なにせ、今まで見ていた骨の形状を規定しているのは、それにまとわりついていた筋によるのだから。すると、筋の付き方の精緻さとそれが生み出す運動の複合構造が見えてくる。骨格と筋で、体表を成す凹凸のほとんどが構成されている。こうなると、体表の凹凸を知るのに、体表筋だけを見ていたのでは物足りない事に気付く。
人体の形状を成す構造をメインとして見るなら、ここまでで一段落付く。ところが、本当の面白みはこの次から現れるのだ。

この先にあるのは、血管。体表のすぐ下を走行する静脈もある程度の規則性があるから、知っておくと造形にも役立つが、そこから脈管系に入り込み、また、筋の運動を制御している神経系に入り込む。そうしてなだれ込むように、内臓系へと入ってゆくと、全てが切り離すことが出来ない機能と構造の環を成していることが分かり、もはや、筋だ骨だと言っていられなくなる。言わば、系統的な見方に局所的な見方が加わる。
そして、それらがどうしてその形になったのかを知るヒントとして、発生学にも首を突っ込んでしまう。これが、これで凄まじく深くかつ面白いのだ。
こうしている内に、ふと自分の存在の見え方の基底が変化してゆくのに気がつく。個と全体、命の流れの一瞬としての今・・。
そんな生の哲学めいたことも、誰かに用意された言葉や思考機序によって発見されるものではなく、生命存在の事実から導き出されるから素直に染みこんでゆく。
そうしてここからは、形状(構造)とそれが織りなす生命(機能)が生み出す留まることを知らない好奇心の波にのまれてしまう・・。

解剖学は、生命を「生命」という看板が付いたつかみ所のない概念に落ち着かせない。それを、「生物」という確固として存在している物体から見いだされる現象であることに引き返させてくれる。
私は、ここに解剖学が持つダイナミクスを感じるし、情報という概念が一人歩きしがちな今にあっては、ひとの存在のあり方を見返す為のツールにさえなり得ると思っている。じゃあ、具体的にどうするの?かと言われると、まず中高基礎教育に解剖学を取り入れたらどうだろうか(もちろん人体解剖は無理だけど)。ただ、解剖学は進める順序が重要で(何でもそうだろうが)、いきなり内臓だ骨だと言っても伝わらないから、そこは考えなければならないだろう。
まあ、単なる思いつきにすぎないが。

とにかく、そんなことを柄にもなく考えてしまうくらい、解剖学は自分を含めた命ある物の存在について多くの示唆を与えてくれるのである。

2010年6月29日火曜日

美の調和

優れた芸術は、押し並べて調和を保持している。それは色彩であったり、音階であったり、陰影であったりと表現領域によって様々であるが、必ず調和をもって成り立っているものだ。これを、私たち鑑賞者は言葉に出来ない心地よさとして認知し、それを「すばらしい」と表現する。つまり、作家でなくとも調和の心地よさを知っている。それを良しとする能力をそもそも持っているのである。
それは、生命体として今まで生きながらえてこられた経験がそのような感情としてわき上がらせるのかも知れない。ある生命体はそれを取り囲んでいる環境との調和が保たれていなければ淘汰されてしまうからだ。生命誕生から35億年の長きにわたり続いてきた生命の流れ。これまで、無数の生命が調和を保てずに絶滅してきた。いま生存している生命体は、その意味で調和のバランスを保てている成功者であり、長く存在を許された「命のヒット作」とも言えるだろう。
調和を美とする私たちは、そうしながら、今まで生きながらえてこられた自分たちの潜在能力を讃えているのかもしれない。

2010年6月24日木曜日

物を見て触る

私たちは、感覚を持っている。生まれたときから当たり前のものとして機能している感覚。この感覚が無ければ私たちは自分の周りの事象を一切知ることができない。そのことを思うと、感覚の意味合いが変わる。
さて、解剖学では、感覚を幾つかに分けて考える。皮膚で感じる感覚は一般感覚。頭にある目、鼻、耳、舌で感じるものを特殊感覚と大きく分ける。また、それが意識下に上るのかどうかで、体性と臓性と区別もする。

頭部に集中する特殊感覚、目鼻耳を獲得したという進化上の事実は全く驚愕に値する。このうちどれか1つが欠けると、日常生活はとたんに困難さが増す。これらは、受容器として分かれているが、脳においてはそれらの情報は相互に補完し合い、統合された外部情報として扱われる。だから、音で見え方が変わったり、その逆もしかり。料理では、盛り合わせと香り付けは重要である。

目鼻耳のそれぞれの依存度は動物によって違う。人間は目の依存度が大きい。左右の目が仲良く並んで正面を向き、立体視を可能にしている。色盲が多いほ乳類において例外的に色覚を持っている。
この強力なツールと、自由に物をつかめる器用な手。この名コンビが人類を地球上で秀でた種に押し上げてくれた立役者だ。見て、触れる。見るだけでは足りない。触れるだけでも足りない。両者の情報の結合が要る。その蓄積が、物作りの経験となり、道具を作り操るという人類の特徴たる性質を構築した。

情報化が急速かつ高度に進んだ今、私たちは情報の利便性を日々”体感”している。情報を阻害するのは物質である。情報をより円滑に統合するには物質性を排除していかざるを得ない。iPhoneは物質的形状としてはもはやモノリスとなった。
情報至上主義的な流れは、芸術にも当然押し寄せている。もともとアート寄りの人間は新しい事象に敏感だから、そうなるのも分かる。とは言え、表現媒体としては以前からある素材(画布に油絵、木彫などなど)を用いていたりするから、どっちつかずの感があふれている。要するに、作家も物質と情報の間を揺れているのだろう。

情報を重視すると、物質を見なくなる。人を表現したいとき、情報としての人で十分ならば、モデルを立たせて観察し造形する必要などない。壁に「人」と書けばよい。
今の芸術、それもより物質と関連する彫刻でこの問題は静かにかつ深く問題になっていると感じる。人を作る作家が、人の形状や構造に興味を示さない。「雰囲気・気配」さえ出ればそれで良いということだろう。

美術解剖学というものがある。間口はとても広い。それは、人の見方を示している。人を見るには、人は物だという事にまず気付く必要があるだろう。そうして、目新しい物を観察するように見ていくと、広い間口の一歩奥に、別の扉があることに気付く。そうして奥へ奥へと進むにつれ人体と芸術のただならぬ面白さの連関に飲まれる。ここからが、人体、芸術、彫刻を追うことの快楽の真の入り口なのだと思っている。そしてそこが美術解剖学の本当の入り口でもあるのだろう。
そして、奥へ進む手段として外せないのが、見ることと触ることなのである。人間を「人体」として片付けない。構造を「解剖学」で終わらせない。彫刻を「象徴」にしない。そっちへ安易に流れないために、自らの目で見て手で触れる。

芸術家の仕事は、情報の整理ではなくて情報の翻訳ではないだろうか。