2019年8月13日火曜日

彫刻の現象学


彫刻や絵画と分けることは今や本質的ではないとも言われる。それでもその言葉は別れたままであり、それは私たちに中に両者の違いが確固たるものとしてあるからに違いない。本質的ではないと口走るその反対側に、両者はあくまで異なるという叫びがある。両者が同じだという本質を探るなら、それでも両者を分ける原因を探さなければならないだろう。私たちの中には彫刻が確たるものとして在るのだ。その、彫刻も絵画も一緒くたに見える混沌から彫刻の探すことが求められる。それは、石彫やブロンズ像のように明確な表面性を持った非時間的かつ実在的な在り方ではなく、現象学的な内面への立ち上がりとして感じ取られるものである。彫刻とは何か。それに肉薄できるものは現象学において他にない。
2019/08/05

2019年7月21日日曜日

思考の時系列

 記述言語はほとんどが時系列を内在している。つまり、読み始めと読み終わりが存在する。わたし達は文章を読むことに慣れているので、思考もそうであるように感じる。実際、頭の中で文章を“語る”こともある。しかし、普段の思考は本当に記述言語のように文章化されているだろうか。おそらく、そうではない。非言語的な思考の立ち上がりがあり、次にそれを言語的に置き換えている。もし口述や記述するなら、それは完全に言語化された証である。
 つまり、非言語的な思考が言語化される過程において、そこに時系列が組み込まれた可能性がある。読んでしまう前はそうではなかった。なぜそう言えるか。非言語的な伝達手段があるからである。つまり、芸術だ。私たちの世界認識は言語だけではない。周囲を見回しても言語以外のものが多く目に入るが、私たちはそれをいちいち言語化せずに認識している。本棚が“本棚”になるのは、そう言おうと(書こうと)した時である。
 だから、記述言語は自由な思考を制限するものでもある。文法を知らなければ、その言語で考えることはできない。言語は階段に似ている。そこを通る人は皆歩幅を強制的に合わせられてしまう。しかし、階段を作る原因は高低差で、本質はその高低差をクリアすることにある。坂道でも構わないのだ。しかし、坂道では歩みの遅い人、歩幅の小さい人など個人の特性に進度を委ねているので、進み方にブレが大きい。階段にすれば、皆同じ歩幅となり、使う筋肉も合わせられ、より効率的となる。
 しかし、記述言語は始まりと終わりがあるので、絵画を一瞥するような、瞬間的な全体理解ができないという致命的な欠陥がある。それでも巻物から書籍となり、ページ数と目次が加わったことは大きな飛躍だったろう。しかし、文章である以上、そこに時系列は常に存在する。文章を構成する単語にはそれがない。「文章」「構成」「単語」「それ」「ない」などには時系列がない。それが組み合うとそこに時系列が現れる。「文章を構成する」は「文章を構成」までは結果が分からず、最後の「する」を読んで意味が決定する。決定する最後までは「しない」かも知れない。ならばそれも単語化すればよいか。「構成文章」「非構成文章」とすればどうか。これは結局、英語や中国語の文法体系である。つまりこれが長くなり、複雑化すればそれを初めから読まざるを得ないので、時系列が組み込まれる。既存の言語は時系列がある前提だから、これに乗っている限りは、時系列に従わざるを得ない。
 しかし、生物が今ある身体を基盤としながら進化してきたように、言語も今ある形から進化することができる。新しい言語へと、よりわたし達の思考に近い、つまり自由自在に飛翔できる思考に寄り添った記述言語へと進化することは不可能ではない。

 わたし達は言語によって自らの思考に形を与え、他者との認識共有を果たし、文化を構成してきた。とは言え、その形式が固まったわけでもない。もしその思考に限界を感じるなら、窮屈さを覚えるなら、それはこの思考の体系の限界が透けて見えているのだ。
 芸術は非言語的思考体系の一つだと言える。しかし、それはあえて原初的段階で常に止められる傾向があるので、意思疎通の道具としては機能していない。少なくとも厳密性に欠ける。言語としての厳密性があり、かつ、時系列の呪縛からも逃れた体系が構築されれば、その時はわたし達の知性は次の領域へと飛躍するかもしれない。

2019年7月8日月曜日

ポリュクレイトスのキャノン かたちの先

   ポリュクレイトスのキャノンは比例だと言う。しかし、何かを区切って計測してみればすぐに気付くことだが、比例計測には終わりがない。どこまでも細かくなって行き、その極限は結局、その無限の数によって、計測する前と同じようなものになってしまう。

   神の形である完璧な人体像を作ろうとするとき、指と手のひらの比率などという大雑把な捉え方だけで作るだろうか。その間の無限の曲げ率の変化は芸術家の感性に任せたのだと言い切っていいのか。彼らはそのように、現代人のように、都合主義の適当さを持っていただろうか。彼らは気になったはずだ。無限に比率を細かくすることは無意味であり、特定の領域間の曲げ率を支配する法則があるのではないか。そういった法則に宇宙の形は従っているのではないかと。同時代は実際にも、ピュタゴラス学派など、数学に基づく真理探究も行われていた。三角関数は相似の重要性を示すが、それは彼らにとっては単なる“便利な考え方“ではなく、真理と繋がっていたはずだ。何となれば、数によるなら、完全なる神の形を示すことが可能なばかりか、その相似形と神とは真理において同一であるとも言える。さらに、真理は形をかえて偏在する事実をも、そこに内在している。今は失われたポリュクレイトスのキャノンも関数だったのではないか。
   事物の理解が言語化によるものとしても、結局全てを語り尽くすことは、ある1つの側面しか見ていないなら、不可能である。人体の理解もそうで、ある細かさから先は、同じ見方が通用しなくなる。そのような見方は、実はより大きな法則の一部に過ぎないのかも知れない。
   さらに、「アキレスと亀」や「飛ぶ矢」で知られるゼノンのパラドクスからも分かるように、宇宙の事物の理解には時間の概念が必要である。空間内で永遠に静止している存在などあり得なのだから。彫刻を作るという行為はこの大きなパラドクスを超えなければならない。しかしそれは、嘘であってもならない。真実が数式にしか表せないイデアならそれを基にした彫刻は常にその影であり、この限界は全てに同一であるという点で、彫刻は決して嘘ではない。

   古代ギリシアの彫刻家は、それ以前もそうだったように、装飾的な人形として彫刻と対峙していたのではない。彼らは真理を探求し、それに同調し、それを理論的世界から現実的世界へと引き出す役割を担っていたのだ。2019/07/02

2019年7月2日火曜日

芸術と言葉

   意識の起源は記憶の獲得にある。記憶は組み立てられるもの。そこに構造がある。そうして言語化される。言語は世界の見方が現れる。いや、言語的にしか世界は見えない。ただし、言語の表象の隙間が無数に生まれる。自然は本来は、恐らく、区切りがないからだ(要考察)。言語を知らない幼児が見る世界は曖昧だ。同様に、言語で区切らない芸術もその隙間を表すことができるが、それが決して確固たるものにはなり得ないのは自明のことなのだ。認識が捉える世界は形から始まるのではなく、言語からかもしれない。もちろん、それが何語かは副次的な問題で、言語的認識とでも言えるものである。そうであるなら、言語野の破壊は認識の破壊を意味する。幼児は直線と言う図形や概念を知る以前に指差しをするが、そこには直線の概念が既存していなければならない。
なぜ、意識を振り返ること(記憶)ができるのか。語るためだ。もちろん、他者に語るのである。他者と語ることで認識の幅を広がるのは、表現の幅か広がるからである。認識を広げるには他者との対話が不可欠なのだ。そして、それを体系立てたものを学問と言う。

   用語なき解剖図は決して決定しない。解剖図は言語の図像化に他ならない。ポリュクレイトスは数値を人体に当てはめたが、そのキャノンと彫像の間に言語が介在する事は言うまでもないだろう。だからギリシア芸術を真に理解するには古代ギリシア語を知る必要がある。ギリシャ彫刻は、語れること以外は作られていないと言える。論理学や哲学、数学が発達した時代、世界の対象は言語的に構築し捕らえられていた。その厳密さは現代を凌ぐだろう。リアーチェの戦士像を見ただけで彫刻が上手になったと坂東先生が言ったが、これは含蓄ある言葉である。ギリシア彫刻に分からないけれども作ってみたは無いのだ。全てが論理的に組み上げられた、いわば芸術的な言語なのである。それゆえ、その言葉を読み取れる者にとっては見ることは読むこと、聞くことなのである。

   このように考えると、芸術家に言葉が求められるのも理解できる。少なくともその芸術家は、語れるところまでは表現できるのだから。彼らは常に先端に立っているから、既存の言葉では足りないかも知れない。ならば新たな言葉を作れば良いのだ。いや、そうしなければ、新たな地平へは進めない。ミケランジェロがフィギュラ セルペンティナータと言わなければ、それは無かったのだ。
   これは、美術解剖学とて同じで、形態認識の固定化も言語によってのみ可能なのだから、本質的には図像ではなく記述、言語なのである。言語化されていない部位や形状はあくまでも認識の隙間で流れ行く不確定なもの、動きの間に現れるブレのようなものでしかない。

2019年6月19日水曜日

生きる喜びについて

   そもそも生きる事と喜びとを単純に結びつけるべきではないのかも知れない。それは意識的に創り出したものではなく、見つけたものだ。つまり、生の喜びはそもそも与えられていたのである。重要なまちがいは、生を一生の事として、たった一つの事象としてまとめてしまうことにある。現実の生は一色ではなく常に変わっていく。幼少期、少年期、青年期、成人期、壮年期、老年期、そして晩年期と分ける言葉を我々が知っていることからもそれが分かるだろう。色合いが変わるのは人生の後半で、壮年期から人生の憂いは色濃くなり、老年期は諦めの色を帯び、晩年期ともなると達観の領域となる。ここで重要なのは、これら世代ごとの変化の主観が世代ごとに異なる点である。すなわち、晩年期の達観は、青年期の諦めとは本質的に異なるもので、ゆっくりと動き、滅多な事で驚きもせず笑いもしない老人の心境は若者には理解しがたい。その達観は若者が何か衝動をじっと我慢しているのとは本質的に異なる。それは、多くの経験を積んだから心が動かなくなっているのとも違って脳の器質的な変化によるもので、つまりは本質的に若者のようには心が動かなくなっているのである。これは、私たちが、5歳児のように遊べない事と同じである。

   生の喜びはなぜ老齢とともに失われるのか。残酷な表現ならそれは死への準備と言うことになろうか。別の視点で言えば、種としての存在必要性の減少とも言える。加齢による肉体の衰えは雪が必ず融けるような自然現象とは異なり、進化によって作られた現象である。それは動物種ごとに寿命が異なることからも明らかである。加齢による身体の衰えはだから周到に準備された現象として見るべきだ。壮年期以降になると、身体には様々な不具合が生じ、身体機能の調和が徐々に失われていく。青年期以降の人生は、それまでに得てきた身体的能力の喪失の期間だとさえ言える。人類という生物の寿命のデザインは青年期が終わって壮年期に入る頃までで終わることを想定しているのかもしれない。そうすると本来は、せいぜい長くがんばっても人生50年ということになろうか。
   ところで身体は全ての器官が同じ速さで衰えるのではなく、これは実感できるものだが、運動器系の衰えが早く、中枢神経系はそれより遅れて衰え、消化器系は最後まで働く。野生では運動器系の衰えは死に直結するので、自然界では老齢個体はほとんどいない。運動器系が衰えても他者によって保護されれば個体はより長く生命を維持できる。人類はそれを実行した動物種で、当然そこにはメリットが存在する。それは、より長く維持される中枢神経系の機能すなわち知識の維持である。人類は互いに身体機能劣化を保護しあい知識の伝達共有のメリットを最大限に利用してきた。さてそれが個人では種とは異なる意味合いを持つ。身体の運動機能より長く保たれる脳は、運動機能の低下の後も記憶というその主な仕事を継続する。記憶の呼び起こしは過去と今の比較に他ならない。それが、かつては可能だったことの喪失に気付かさせ、喜びを失わせる一因ともなる。


   ところで、自分でこうして考えて大事な視点に気付く。それは私が老年期未経験者であることだ。老年期に達していない者が、観察と経験に基づいて、老年期は喜びが失われると言っていることが全幅において正しいとは当然思えない。しかし同時に未経験者は何も知ることができないというのもうなずき難い。結局のところ、喜びや悲しみといった感情は主観の最も深いところに根ざしたもので、個人的な彩りが強く、また同時に年齢期ごとにも異なるものとしか言いようがない。ただし、経験してもいないことを語れるのは人類に特有の性質である。