大学受験の頃などになると誰でも一冊は持つ「参考書」。その情報は基本的には教科書と同じである。では、なぜ同じ内容を求めるのか。それは、参考書が、教科書の内容を整理していて分かりやすいからだ。ならば、初めから教科書など使わずに参考書だけで良いのではないかと思い、それだけを読み進めると内容が分からない。要するに、参考書は要所だけを取り出すので、情報の切り貼りになり、結果それだけでは全体としての深い理解に至らないのである。
この、欲しい部分だけを抜き出すという行為は、情報入手の効率化だけを考えるなら効果を上げるだろう。けれども、情報の整理は、それ以外の情報を捨てているという事実にも気付いていなければならない。参考書だけでは理解が進まないのはそのためである。
現代は、科学の時代である。科学によって人類は自然の理解を進めた。科学という手続きは、自然という生の情報から必要な情報を取り出してゆくというものだ。それによって問題点が明快になり、単一の事象として研究してゆくことが出来る。細分化が進んでゆくと各領域の独自性も進み、互いの関連性が希薄になることもある。
これは、知識形態の「参考書」化だと言える。自然という偉大なる文脈は複雑でとらえどころがない。そこから必要な情報だけを取り出し理解しようとしているのである。
たしかに、それは一見魅力的だ。受験生にとって参考書がそうなのと同じである。けれども、それだけを見ても決して本質的な理解には繋がらない。物事を知るには体系的な理解が必要だが、切り取られた情報にはそれがない。それは、映画のあらすじだけを人から聞いて、それを見た気になっているようなものだ。問題は、そういう風潮が強くなっているように感じることだ。
皆が、分かりやすい、間を端折った回答だけを求めている。それでいい領域もあるだろう。だが、それでは本質を見誤る領域もある。自然科学、芸術などは、それらと折り合いが付かない領域である。自然科学は、「科学」であるから、その理解には科学的手続きを踏むが、その知識は再び自然の文脈へと還元出来なければ生きた知識にはならないだろう。芸術は、科学のような知識体系としてまとめられる必要はないが、作家個人の理解の過程においては、自然科学のそれと似た過程を踏むはずである。
文脈から外された科学知識に意味がないように、文脈から外された美は空虚である。
理解の為に、私たちはさまざまなものを分断した。しかし、そのものとしての存在は、分断してゆくほどに本質から離れてゆくものだということを忘れてしまっては、結局、本来の目的(本質的理解)にはたどり着けない。
統合が必要だ。命が、自然がそうであるように。
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