素晴らしい彫刻を目の前にしたときの、心の震えをどう表現すればいいのだろうか。
芸術に言葉は最も似合わないものだから、その気持ちを言語化しようとすればするほど、指の隙間からこぼれ落ちてゆく。
私は、彫刻的美は、構造の美と文脈の美の二つに大きく分けられると思っている。構造の美とは、形そのものの美しさの事であり、文脈の美とは、その作品が持つ主題に宿る美しさの事だ。作品の評論文などを見ると、作品を語る際に、文脈の美について言及しているものが多く見受けられる。文脈の美は、その名の如く、言語化しやすい。ストーリーは言葉で語られるからだ。私たちは、その作品について語り合おうとするとき、言語化しやすいものを無意識に選別して当てはめる。そして言葉になると安心して、その言語化されたものが作品から得られる感動の主因だとさえ信じるようになってしまう。
素晴らしい作品を前にしたときの、心の震えを思い返すと、「感動は決して、言語で言い表すことは出来ない」と断言できるように思う。言語はオールマイティではない。人間の全てを言葉で語りつくすことなど出来ない。
言語をあやつる文学における感動でさえ、行間に宿っている。私たち日本人は、俳句や短歌の味わいを思い返せば、それがよく納得できる。
彫刻における感動の主因は、文脈ではなく、構造にあると信じている。ギリシア、ミケランジェロ、ロダン、ムーア・・。彼ら巨匠たちは、全て「構造美の達人」なのだ。
彼らの彫刻に通ずるものを、川の石や木の根元、死んでいる虫や骨、流れる雲にも見つけることが出来る。電子顕微鏡で映し出される体内の微視的構造にさえ、それを見つけることがある。駅の構内をせわしく往来する人々の挙動や”裸を晒している”顔にも、構造と動きの調和の美がある。世界は、彫刻的美にあふれているのだ。
それら彫刻的美から、作家は彫刻美を作り出す。それこそが、芸術のダイナミズムであって、地球上の生物で人類だけが行う、極特殊な行為だと言える。その意味において、芸術作品を作るという行為は何よりも人間くさいのだ。作家の人間性に憧れる人が多いのは、こういうところも関係しているのかもしれない。
目の前にして口ごもるしかないほどの作品を、同じ人間が作り出すということ。それは、奇跡を目の当たりにしているということなのではないだろうか。
2 件のコメント:
はじめまして。
イフェの芸術で検索してたらここへ来ました。
とても興味深い文章でいろいろと考えさせられる部分もあり、
また訪問させていただこうと思ってます。
更新がんばってください。
コメントをありがとうございます.
イフェの造形力は素晴らしいですね.
思うままに綴っており,読み辛いかと思われ,恐縮です.
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