彫刻家や芸術家は格闘家やアスリートのようだ。彼らが何を言っても結局はその作品の良し悪しで判断される。それも作品の良し悪しは見た瞬間にわかってしまうから、勝負は一瞬で片がつく。
良いと言われるような作家でも、その作品の全てが良いことなど無い。「良い作家」を維持するには、良い作品を生み出す割合が高いことが大事である。長く続けている作家の作品を見ると、良し悪しの特徴が分かることがある。しかし、良くないような作風も作り続けていたりするから、作っている本人には分からないものなのだろう。実際それどころか、作家に言わせれば、全ての作品がその時々の最高傑作を作るつもりで対峙している訳である。それもアスリートを似ている。誰も負けると思いながら勝負はしていないのだ。
若い作家が期待されるのはただ単に作品数が少ないからである。始めの勝負で勝てば、取り敢えず勝算は高くなる。しかし、その先も勝ち続けるかどうかは未知である。
また、作家が自分に下す価値観を分からないように、鑑賞者も自分の判断に自信がない。だから、それを誰かが言葉にしてくれるとその判断をありがたがるのである。だがそこで多くの間違いが生じる。刃物のような他人の言葉の強さに負けて、自分の判断を捨て、他人の判断に寄り掛かってしまうのである。難解に見える作品ほどその傾向が強い。これが横行すると、本来の本質的な勝負の結果が変わってしまう。つまり、実際は大した価値を見出せないような作品が素晴らしい物として扱われるのである。この様な間違いは、作品そのもので判断せずに言葉に寄り掛かった結果起こるのである。芸術の価値を揺るがさないためには、鑑賞者が自分の眼で見て、自らの価値観で判断を下さなければならない。それも、誰かの言葉にはなるべく影響されずに、である。そうは言っても、影響されない価値判断は簡単ではない。むしろ、何らかの信念を抱いているほど、自分でも気付かないうちに「色眼鏡」を掛けてしまっている。一体、専門家と言われる者ほど強い色のそれを掛けている。私たちは皆、無垢な幼児でもなければ、何らかの色眼鏡をして世界を見ているのだと言えるだろう。それは芸術家も同じである。芸術家は、言わば酷く変わった色のそれを掛けている人種である。だから、鑑賞者は自分の色眼鏡をしたままでは、受け入れがたいものとしてそれが映る事もあろう。作品を前にする時は、半ば意識的に自らの色眼鏡を外したり、作家のそれが何色なのかを想像する必要があろう。しかし、最終的な判断は自ら下さなければならない。そして、その判断には自信を持つべきである。鑑賞者の全てがそうなることが理想であって、そうなることで、作品の真実の価値が判断されるのであるから。
そして、鑑賞者による真実の価値こそが、芸術家にとって必要なのである。芸術は作家による一方的な価値観の押し付けではない。人間が行う行為はすべからく対話的であって、作品もまたその内にある。鑑賞者が正しく判断し、それを作家が受け取ることで次の作品へと繋がるのである。しかしながら、自分のことを芸術家だと信じている人の中には、この対話の重要性を積極的に破棄しようとしているように見受けられる者もいる。彼らの作品はしばしば独善的で、攻撃的に映る。攻撃は一方的で、相手を打ち負かす事だけを目的とした行為である。それらは高圧的で、それに対する鑑賞者の返信を求めていない。独善的な会話がジャルゴンであるように、一方的な作品は対話的価値を持たない。鑑賞者は、対話の可能性を感じられない作品に対して、それを振り向かせようと無駄な努力をする必要はない。作られた物はそこに在る以上の何ものでも無く変化することもないのだから。変わるとするなら、それは鑑賞者の視点や感性である。しかし、変わろうと努力しなければならないのならば、それは作品が放つ魅力とは言い難い。”努力を伴う理解”は芸術的感受性とは異なるものである。
本当ならば、誰の作品であれ、鑑賞者は自らの感性で感じ取ったものを素直に表明すべきである。無名であっても良いものは良いし、有名であっても詰まらぬものは詰まらないのだ。しかし、社会人である以上、そのように言えないこともあり、その態度が芸術の質を少なからず引き下げているのだろうと思う。だから、芸術家は身近な人間の批評は信じないのが賢明である。自分のことなど知らない者が言う言葉こそがむしろ真実に近いだろう。
映画『ミッドナイト・イン・パリ』で、主人公がヘミングウェイに自作小説の批評を打診すると、ヘミングウェイは読みもせずに「君の作品は不快だ」と言う。「下手なら不快。上手でも嫉妬で不快。作家同士はライバルなのだ。意見など求めるな」と。なかなか良い返しだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿