ブラスとマイナス。物質と反物質。天使と悪魔。男と女。
世界は、対称で成り立っている。つまり、バランスのこと。
バランスが存在するためには、対称が必要だ、とも言い換えられる。
熱力学の第1法則も、ここに当てはめる事が出来る。
坂道を走って上れば、早く着くが疲れる。のんびり上れば時間がかかる。疲れず(エネルギーを消費せず)に早く上ることは出来ない。
エネルギーの総和は常に一定だ。そこに変化が起きるのは、バランスが崩れた時だ。
バランスが崩れ、それが安定を取り戻すまでに、さまざまなドラマが生まれる。
その最たるものが、私たちが取り込まれている宇宙そのものだ。
ビッグバンにより、大きく崩れたバランスが、安定へ向かって揺らいでいる。その一時が今に過ぎぬ。
宇宙という大きなブランコが揺れた時、そこに乗っかっている様々な物も揺さぶられる。そうして、私たちが生まれた。
喜と怒。哀と楽。生という揺らぎが止まるまで、私たちの心も揺れ続ける。
そんな、私たちが生み出す芸術にも、当然、対称があり、そのバランスこそが重要になる。
実空間にたたずむ彫刻には、よりシビアな問題としてそれが立ちはだかっている。
彫刻における対称とは、すなわち、実と虚だ。
私たちが彫刻を見る時、当然目に映るのはその作品そのもの、つまり実体だ。しかし、空間内において実体が存在するには、それを取り囲む虚が同時に存在しなくてはならない。これは、型取りのキャスト(雄型)とモールド(雌型)の対応関係に似ている。私たちが目に出来るのはキャストだが、その時、感覚ではモールドも捉えているはずだ。
彫刻家においても、この、虚の量とでも言うようなものを明確に意識したのはそう多くはなかっただろう。しかし、ヴェルヴェデーレのトルソなどを見れば、ギリシアの時代からそれを感覚的にでも知っていたのは確かだ。
近代において、それを意識的に取り入れたのが、ヘンリー・ムアだった。その意味で、革新だった。彼は、なぜ、そこに気がついたのか。
ムアは、制作のヒントとして様々な自然物を身近に置いていたが、そこには動物の骨の断片も含まれていた。骨は、体の芯だと例えられる。しかし、その形をよく観察すれば、まず骨ありきで私たちの体が出来ているわけではないことに気がつく。むしろ、その形状は「筋肉の隙間に骨が出来た」ようにさえ見えるのだ。その時、骨にとって筋肉はモールドである。
そして、動物が死んで骨だけになったとき、かつてあった筋肉は骨という実体をとりかこむ虚の量となっているのである。
ムアは、骨を眺めていてそのことに気がついたのかもしれぬ。
闇が無ければ光も見えぬように、全てが対称のバランスを持つように、彫刻という立体物にも、実と虚のバランスが存在する。その揺らぎに、私たちは形状の美と心地よさを感じ取る。命さえ、見る。
2009年5月14日木曜日
人形と人間のジレンマ

現在では最古となる、3万5千年前のマンモス象牙製人形が発見されたそうだ。遠い昔から、私たちは自分たちの形を作ってきた。それは今でもまったく変わりがない。芸術としての人物像から、身近な人形まで。
さて、人間とその形状をまねた人形。外見は似せる事ができるが、大きな違いがある。人間の体は柔らかいのに対して、人形のそれは硬い、ということだ。彫像や人形の素材となるものは、自然物由来である。恐らく始まりは、木や動物の骨や牙などを削ったのだろう。やがて、石を削るようになったが、これらは、硬い素材を削り出す、という技法で一致している。それとは別に、粘土をこねても作られただろう。しかし、それを焼いて強くするテラコッタ技法が発見される以前のものは普通は崩れてしまい、残らない(洞窟内で保存されていた例はある)。この、粘土で形を作るのは素材が柔らかいという点で、削り出す技法と大きな違いがあると言えるが、保存段階に入るとやはり固くせざるを得ない。
このような素材の制限から、彫刻を含む人形の性質が形成された。すなわち、固くて動かない、というものだ。私たちと同じ形をしていながら動かないという欲求不満を満たすために、始めに取られるのは姿勢付け(ポージング)である。要するに、あたかも動いているかのような姿勢を取らせるのである。そうすることで、鑑賞者の想像のうちで動かそうとするのである。次に来るのが、関節を実際に作り可動性をもたせるということだ。よく見られるのが、肩と股関節を動くようにするというもの。首も回転するものも多い。そこから発展して、さらに自然な姿勢を取らせられるように改良されて生まれたのが、球体関節だ。関節部分が球体と、それをはめ込むソケット状の組み合わせで、外れないように内側からゴムひもなどで引っぱり止めてある。こうした関節の改良で、動けなかった人形は動く事が出来るようになった。その意味で人間に一つ近づいた。
しかし、この関節を手に入れた事で、先にあげた人間と人形の間にある違いが、皮肉にも際立つ事になる。すなわち、彼らの体は已然として硬いということだ。球体関節を持ち、姿勢を変える事が出来るその姿は人間ではない、別の生き物を彷彿とさせる。それは、外骨格を持つ生き物。昆虫やカニなどの姿である。彼らは、硬い外皮の内側に柔らかい筋肉を持つ。ちょうど、芯としての骨に筋肉の覆いを持つ私たちと逆である。人間に近づけようと、関節を増やしていけば行くほど、その姿は、ひとがたの昆虫のようになってゆく・・。この大きなジレンマを抱えながら、それでも、そこに満たされない思いを投影させて人形というものの魅力が作り出されている。人形は、求めるものを手にする事が初めから既に断たれているという、業を背負っている存在となった。
その反面、命を持たぬ彼らは、外的に破壊されない限り、その姿をとどめ続ける事が出来る。私たちは、その外見を老いという形で変化させ、やがては消えてゆく運命である。
死をはらみつつ、真実の肉体を持つ私たちと、それを手に出来ず、永遠を手にする人形。
このジレンマは、永遠に収束することなく、それゆえに、共に存在し続けるだろう。
2009年5月10日日曜日
アマチュア・アートとプロフェッショナル・アートの違い
現代は、アート全盛時代だ。「アート」という言葉が至る所で踊っている。
当然ながら、Artは、芸術という意味だが、言葉に細かい感性を持つ日本では、もはや芸術とアートは別の意味を持っているように思う。芸術というと、クラッシックなものを指し、対してアートはより現代的でポップなものを指している傾向がある。ミュージシャンやシンガーも、アーティストと呼ばれる。むしろ、芸術に関心が薄い若い人はアーティスト=ミュージシャンの結びつきのほうが強いのではないだろうか。
さて、このアートという言葉の敷居の低さが手伝ってか、アートは何でもあり、という風潮が出来上がっている。それは、それでいいのだが、何でもありの拡大解釈からか、何の技術もいらない、果ては、感性さえもいらない、というものになりつつ有るように見える。
人の活動は、大抵始まりは、アマチュア(素人)から始まる。そして、そこから際立ったものを持ったものが、それを専門とするようになり、プロフェッショナル(専門家)となる。専門家とは本来、それだけで家計を支えているような人物であるわけだが、現代における芸術では、専門的な技術を持ち、際立った才能を持っていても、それがそのまま金銭に繋がらない現状があり、その時、彼は、技芸においてはプロでも、生活できないという点ではアマであるという、煮え切らない存在となる。そして、この”残念な”存在が、あまりにも当たり前となった時に、アマチュアとプロフェッショナルの壁が希薄なものになった。
そうして、才能をもつ芸術家は自身を失うことになり、アマチュアの芸術家が誰彼も自分をアーティストだと名乗れるようになった。際立った専門分野だった芸術は、アートという大衆文化に置き換えられつつある。マス(量)の力は大きい。
今、アマチュアとプロフェッショナルの違いを明確にしてもいいだろう。アートという、何でもあり(何も無いのも、あり!)の領域において、両者を圧倒的に区別するものがある。それは、作られるものが誰のためであるか、ということだろう。アマチュアのほとんどはその表現が「私から私へ」という自己円還運動をしている。鑑賞者はそれに同意するかしないかのどちらかでしかない。言い換えれば、作品がコミュニケーションをしていない。対して、プロフェッショナルは、「私から他者へ」作品が”開かれている”。
この、最終的な出力先が、内向きか外向きかは、両者を区別する大きなファクターであると思う。なぜなら、内向きであるなら、それは自分が許せばなんでもよい、の世界であり、そのことは往々にして品質の低下を招くが、外向きである以上は、認められるための努力が必要であり、結果として品質の向上を呼ぶからである。
近代以前の芸術は、ずっと宗教と共にあった。その時の作家は、作品を買い上げる王侯貴族や法王という具体的なクライアントのさらに後ろに、神という絶対的な審判者を想定していた。
質の高い、プロフェッショナルとしての品質を得るためには、そのくらいの厳しい要求をする他者が必要なのかもしれない。それを失った、孤独な現代の芸術家は、ある意味では過去よりも厳しい時代を生きていると言えるのだろう。
当然ながら、Artは、芸術という意味だが、言葉に細かい感性を持つ日本では、もはや芸術とアートは別の意味を持っているように思う。芸術というと、クラッシックなものを指し、対してアートはより現代的でポップなものを指している傾向がある。ミュージシャンやシンガーも、アーティストと呼ばれる。むしろ、芸術に関心が薄い若い人はアーティスト=ミュージシャンの結びつきのほうが強いのではないだろうか。
さて、このアートという言葉の敷居の低さが手伝ってか、アートは何でもあり、という風潮が出来上がっている。それは、それでいいのだが、何でもありの拡大解釈からか、何の技術もいらない、果ては、感性さえもいらない、というものになりつつ有るように見える。
人の活動は、大抵始まりは、アマチュア(素人)から始まる。そして、そこから際立ったものを持ったものが、それを専門とするようになり、プロフェッショナル(専門家)となる。専門家とは本来、それだけで家計を支えているような人物であるわけだが、現代における芸術では、専門的な技術を持ち、際立った才能を持っていても、それがそのまま金銭に繋がらない現状があり、その時、彼は、技芸においてはプロでも、生活できないという点ではアマであるという、煮え切らない存在となる。そして、この”残念な”存在が、あまりにも当たり前となった時に、アマチュアとプロフェッショナルの壁が希薄なものになった。
そうして、才能をもつ芸術家は自身を失うことになり、アマチュアの芸術家が誰彼も自分をアーティストだと名乗れるようになった。際立った専門分野だった芸術は、アートという大衆文化に置き換えられつつある。マス(量)の力は大きい。
今、アマチュアとプロフェッショナルの違いを明確にしてもいいだろう。アートという、何でもあり(何も無いのも、あり!)の領域において、両者を圧倒的に区別するものがある。それは、作られるものが誰のためであるか、ということだろう。アマチュアのほとんどはその表現が「私から私へ」という自己円還運動をしている。鑑賞者はそれに同意するかしないかのどちらかでしかない。言い換えれば、作品がコミュニケーションをしていない。対して、プロフェッショナルは、「私から他者へ」作品が”開かれている”。
この、最終的な出力先が、内向きか外向きかは、両者を区別する大きなファクターであると思う。なぜなら、内向きであるなら、それは自分が許せばなんでもよい、の世界であり、そのことは往々にして品質の低下を招くが、外向きである以上は、認められるための努力が必要であり、結果として品質の向上を呼ぶからである。
近代以前の芸術は、ずっと宗教と共にあった。その時の作家は、作品を買い上げる王侯貴族や法王という具体的なクライアントのさらに後ろに、神という絶対的な審判者を想定していた。
質の高い、プロフェッショナルとしての品質を得るためには、そのくらいの厳しい要求をする他者が必要なのかもしれない。それを失った、孤独な現代の芸術家は、ある意味では過去よりも厳しい時代を生きていると言えるのだろう。
2009年5月9日土曜日
解剖的な美
解剖と彫刻は、共に物質の形状を追う。解剖も彫刻も現在は細分、多様化しているが、ここで言うそれは、解剖では肉眼解剖であり、彫刻では具象人体彫刻を指す。すなわち、それぞれの根源的な形、クラシックである。
私は、クラシックという部分にこだわりたいと思う。クラシックだから良い、のではなくて、良いものはクラシックに見つけられる、と信じるからだ。
彫刻表現が多様化し、それは現在では物質感から遠ざかりつつあり、作家個人の心象を形に託す、というものが主流となって久しい。物質感が希薄になるということは、形状が持つ構造が作り出す美に対しても関心が薄れていくということであって、実際に昨今の立体作品では、物質形状の美しさを持っているものが少ない。
作家の主張というものは、時と共に流れてゆくものである。それはやがて風化するだろう。その時、残された作品に形状の美しさが無ければ、それの価値はどこにあるというのか。私は、彫刻はまず一義的に、形状の美を持たなければならないと思う。心象は、それが出来て初めてそこに乗せる事が許されるものだ。
人体には、構造と形状の美が限りなく詰まっている。それは、全体にもあり、部分にもあり、解剖的内部にも見いだされる。
美とは、そこに転がっているものではない。つまり、絶対的な美など存在せず、感じる側がその準備が出来ていなければ、多くの美を見つけ損なうだろう。人体の外形、すなわちヌードは、人体が持つ美のもっとも基本的で、揺るぎのないものとして歴史的にその地位を保っている。裸は、我々が人類の歴史を通して常に見てきたものだから、そこの美を見つけ出すのは当然だろう。なぜ、そこに美があるのか、それには規則があるのか、そういう視点で古代ギリシアの芸術が作られた。その基準は現在でも息づいていると言ってもいいだろう。
人体の内部も古代ギリシアから見つめ続けられているが、その行為は、常に死と結びついており、また、それにより得られた知識は医学へと応用されるために、そこから美の情報はあまり積極的にくみ出される事は無かった。16世紀のイタリアでは、ルネサンスの追い風の下、芸術家が体内の構造に目を向けたが、それらはあくまで、造形のための資料としての観察であった。ただ、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した解剖手稿からは、彼が解剖学的構造そのものに芸術的な意味を見いだしていた事が伝わってくる。
その後も、いわゆる芸術的な解剖図というものが歴史的に幾つか描かれているが、そこには死のアレゴリーとしての表現や、解剖という概念を描写したという印象を抱くものが多いように思う。19世紀に入ると、芸術と医学は完全にたもとを分つようになり、解剖図譜は医学的な情報伝達手段としての純粋性が高まっていった。それは、図譜の芸術性が薄れていったことと同義である。以来、芸術における解剖の位置づけは、人体表現のためのリソースということになった。高度に発達した肉眼解剖学から知識を応用したのは良いが、そのことで、実際に芸術家は解剖をすることはなくなり(社会倫理的背景もあろうが)、与えられた知識を信じるしかなくなった。これは、芸術家が人体内部に存在する構造の美を発見し得なくなったことを意味する。それは、解剖学者だけの特権となった。彼らは、そこに美を見いだすだろうがそれを芸術に昇華する術を持たない。
現在、芸術家が応用できる解剖学的な情報と言えば、解剖学者によって整理された人体内部の構造と、それらの機能というソフト的なものである。
私たちは、人体の内部を見る、知る、ということにある種のタブーを感じる。それは、そこに死の意味を招き入れてしまうからであろうが、芸術家までもがいつまでもその感情に縛られているのは不思議でもある。医学者、解剖学者は早々にそこから脱却し、人体内部を探索してきた。そして、多くの発見を積み重ねてきた。
芸術家も、解剖イコール死、というステレオタイプを外しても良いと思う。その準備ができて、人体の内部構造を見た時、そこには今まで見えなかった驚くべき構造の美に気がつくのだろう。それは、アレゴリーでもグロテスクでもない、純粋に形状が生み出す美しさのはずだ。そして、まずそれに気づくべきは、彫刻家であってほしい。
私は、クラシックという部分にこだわりたいと思う。クラシックだから良い、のではなくて、良いものはクラシックに見つけられる、と信じるからだ。
彫刻表現が多様化し、それは現在では物質感から遠ざかりつつあり、作家個人の心象を形に託す、というものが主流となって久しい。物質感が希薄になるということは、形状が持つ構造が作り出す美に対しても関心が薄れていくということであって、実際に昨今の立体作品では、物質形状の美しさを持っているものが少ない。
作家の主張というものは、時と共に流れてゆくものである。それはやがて風化するだろう。その時、残された作品に形状の美しさが無ければ、それの価値はどこにあるというのか。私は、彫刻はまず一義的に、形状の美を持たなければならないと思う。心象は、それが出来て初めてそこに乗せる事が許されるものだ。
人体には、構造と形状の美が限りなく詰まっている。それは、全体にもあり、部分にもあり、解剖的内部にも見いだされる。
美とは、そこに転がっているものではない。つまり、絶対的な美など存在せず、感じる側がその準備が出来ていなければ、多くの美を見つけ損なうだろう。人体の外形、すなわちヌードは、人体が持つ美のもっとも基本的で、揺るぎのないものとして歴史的にその地位を保っている。裸は、我々が人類の歴史を通して常に見てきたものだから、そこの美を見つけ出すのは当然だろう。なぜ、そこに美があるのか、それには規則があるのか、そういう視点で古代ギリシアの芸術が作られた。その基準は現在でも息づいていると言ってもいいだろう。
人体の内部も古代ギリシアから見つめ続けられているが、その行為は、常に死と結びついており、また、それにより得られた知識は医学へと応用されるために、そこから美の情報はあまり積極的にくみ出される事は無かった。16世紀のイタリアでは、ルネサンスの追い風の下、芸術家が体内の構造に目を向けたが、それらはあくまで、造形のための資料としての観察であった。ただ、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した解剖手稿からは、彼が解剖学的構造そのものに芸術的な意味を見いだしていた事が伝わってくる。
その後も、いわゆる芸術的な解剖図というものが歴史的に幾つか描かれているが、そこには死のアレゴリーとしての表現や、解剖という概念を描写したという印象を抱くものが多いように思う。19世紀に入ると、芸術と医学は完全にたもとを分つようになり、解剖図譜は医学的な情報伝達手段としての純粋性が高まっていった。それは、図譜の芸術性が薄れていったことと同義である。以来、芸術における解剖の位置づけは、人体表現のためのリソースということになった。高度に発達した肉眼解剖学から知識を応用したのは良いが、そのことで、実際に芸術家は解剖をすることはなくなり(社会倫理的背景もあろうが)、与えられた知識を信じるしかなくなった。これは、芸術家が人体内部に存在する構造の美を発見し得なくなったことを意味する。それは、解剖学者だけの特権となった。彼らは、そこに美を見いだすだろうがそれを芸術に昇華する術を持たない。
現在、芸術家が応用できる解剖学的な情報と言えば、解剖学者によって整理された人体内部の構造と、それらの機能というソフト的なものである。
私たちは、人体の内部を見る、知る、ということにある種のタブーを感じる。それは、そこに死の意味を招き入れてしまうからであろうが、芸術家までもがいつまでもその感情に縛られているのは不思議でもある。医学者、解剖学者は早々にそこから脱却し、人体内部を探索してきた。そして、多くの発見を積み重ねてきた。
芸術家も、解剖イコール死、というステレオタイプを外しても良いと思う。その準備ができて、人体の内部構造を見た時、そこには今まで見えなかった驚くべき構造の美に気がつくのだろう。それは、アレゴリーでもグロテスクでもない、純粋に形状が生み出す美しさのはずだ。そして、まずそれに気づくべきは、彫刻家であってほしい。
2009年5月1日金曜日
解剖学と彫刻の近似点
解剖学は、医学。彫刻は、芸術。この両者に共通点などあるようには一見思えないが、知っていくと以外や似ている。
まず、始めにして決定的なのが、どちらも形を取り扱う、という点だ。
彫刻といえば石彫や木彫、ブロンズなど必ずそこには物質がある。彫刻家は、表現対象を様々な物質に投影させて語らせようとする芸術家のことだ。
対して、解剖学は人体の形を取り扱う。一般的に、解剖学と聞くと、死体を切り刻むような印象を抱かれるものだが、その行為と解剖”学”には厳密に言えば違いがある。切り刻む行為を「解剖する」と言う。その行為によって得られた知識の体系を「解剖学」と言う。日本語だと、どちらも解剖という言葉が付くからごっちゃになってしまう。英語なら、行為の解剖はDissectionやAutopsyなどと呼び、学問体系としての解剖学はAnatomyと呼ぶのであまり混ざらない。とは言え、Anatomyを追求するにはDissectionは切り離せない行為でもある。
話を戻すが、解剖学は人体の形を探る学問である。人体の形には意味があるだろうということで、その形態が持つ機能を探ろうとする。目の前にある形状を重要視する。それを安易に数値化したり、概念化してしまおうとしない。非常に形状にシビアだ。その意味から、解剖学とは形態学Morphologyのひとつであるとも言われる。
このように、彫刻と解剖学の両者は、形態を扱う、それも人体と関係していると言う点でも共通しているのだ。
他にも、細かいことを言うと、解剖にはメスSculpelが必須道具だが、これは彫刻Sculptureと語源が同じだ。解剖は刃物で人体を切り刻み、彫刻は刃物で人体を削り出す。
また、解剖学と彫刻が抱える、現代における問題点も、どこかしら似た風である。
まず、どちらも一般社会から少し離れた所にある。解剖学を専門にしている人も、彫刻をしている人も、あまり身近にはいないだろう。それゆえに、一般の印象が一人歩きする傾向があり、現場の状況との乖離が起きる。まあ、これはどんな専門領域にもあるだろうが。
一般的には、解剖学は医学には当然必須であろうと思われている。しかし、医学教育の現場では時間数を減らす傾向にあると言う。各領域が高度に専門化している現代医学を広く学ばせるためには、解剖学の長時間の「拘束」が問題なのだ。しかし、医学の基礎であり、倫理教育的側面も持つ解剖学の教程をなくすことは考えられないという考えも当然で、互いのバランスの力点が模索されている。
彫刻の場合は、その言葉が指す意味合いの拡大化から来る問題がある。かつての彫刻といえば、素材は石、木、粘土が主だった。そして、表現の主題は人体などの具象だった。人体という複雑な形状を、加工が難しい素材に写し取るためには、立体感覚を養う訓練や人体の構造の知識など、高いスキルが要求され、しかもそれらは単に基礎能力だった。つまり、それらの能力を持った上で、芸術的な感性を持った表現が要求された。
それが、近代以降は、彫刻表現が多様化し、また化学素材の普及もあり材料も変化していった。今では、単純に立体的な表現を全て「彫刻」と漠然と呼んでいる現状がある。立体表現の敷居が下がったことで、従来の彫刻に必要とされたスキルも重要視されなくなり、結果的に、立体感覚に乏しい彫刻家や人体をまともに作れない彫刻家の存在が当たり前となった。
これらの問題は、各領域が自己の立ち位置を見失い掛けていることの現れである。医学における解剖学は、基礎医学としての側面を強調してもしすぎることはないだろう。それをアイデンティティーとして取り込んで良いのだと思う。
芸術における彫刻は、立体を扱うという行為そのものの重要性をもう一度見直さなければいけない。彼らこそが「彫刻家」であり、以外は「立体家」と分けても良い時期に来ている。そうでなければ、彫刻家は近く絶滅してしまうだろう。
まず、始めにして決定的なのが、どちらも形を取り扱う、という点だ。
彫刻といえば石彫や木彫、ブロンズなど必ずそこには物質がある。彫刻家は、表現対象を様々な物質に投影させて語らせようとする芸術家のことだ。
対して、解剖学は人体の形を取り扱う。一般的に、解剖学と聞くと、死体を切り刻むような印象を抱かれるものだが、その行為と解剖”学”には厳密に言えば違いがある。切り刻む行為を「解剖する」と言う。その行為によって得られた知識の体系を「解剖学」と言う。日本語だと、どちらも解剖という言葉が付くからごっちゃになってしまう。英語なら、行為の解剖はDissectionやAutopsyなどと呼び、学問体系としての解剖学はAnatomyと呼ぶのであまり混ざらない。とは言え、Anatomyを追求するにはDissectionは切り離せない行為でもある。
話を戻すが、解剖学は人体の形を探る学問である。人体の形には意味があるだろうということで、その形態が持つ機能を探ろうとする。目の前にある形状を重要視する。それを安易に数値化したり、概念化してしまおうとしない。非常に形状にシビアだ。その意味から、解剖学とは形態学Morphologyのひとつであるとも言われる。
このように、彫刻と解剖学の両者は、形態を扱う、それも人体と関係していると言う点でも共通しているのだ。
他にも、細かいことを言うと、解剖にはメスSculpelが必須道具だが、これは彫刻Sculptureと語源が同じだ。解剖は刃物で人体を切り刻み、彫刻は刃物で人体を削り出す。
また、解剖学と彫刻が抱える、現代における問題点も、どこかしら似た風である。
まず、どちらも一般社会から少し離れた所にある。解剖学を専門にしている人も、彫刻をしている人も、あまり身近にはいないだろう。それゆえに、一般の印象が一人歩きする傾向があり、現場の状況との乖離が起きる。まあ、これはどんな専門領域にもあるだろうが。
一般的には、解剖学は医学には当然必須であろうと思われている。しかし、医学教育の現場では時間数を減らす傾向にあると言う。各領域が高度に専門化している現代医学を広く学ばせるためには、解剖学の長時間の「拘束」が問題なのだ。しかし、医学の基礎であり、倫理教育的側面も持つ解剖学の教程をなくすことは考えられないという考えも当然で、互いのバランスの力点が模索されている。
彫刻の場合は、その言葉が指す意味合いの拡大化から来る問題がある。かつての彫刻といえば、素材は石、木、粘土が主だった。そして、表現の主題は人体などの具象だった。人体という複雑な形状を、加工が難しい素材に写し取るためには、立体感覚を養う訓練や人体の構造の知識など、高いスキルが要求され、しかもそれらは単に基礎能力だった。つまり、それらの能力を持った上で、芸術的な感性を持った表現が要求された。
それが、近代以降は、彫刻表現が多様化し、また化学素材の普及もあり材料も変化していった。今では、単純に立体的な表現を全て「彫刻」と漠然と呼んでいる現状がある。立体表現の敷居が下がったことで、従来の彫刻に必要とされたスキルも重要視されなくなり、結果的に、立体感覚に乏しい彫刻家や人体をまともに作れない彫刻家の存在が当たり前となった。
これらの問題は、各領域が自己の立ち位置を見失い掛けていることの現れである。医学における解剖学は、基礎医学としての側面を強調してもしすぎることはないだろう。それをアイデンティティーとして取り込んで良いのだと思う。
芸術における彫刻は、立体を扱うという行為そのものの重要性をもう一度見直さなければいけない。彼らこそが「彫刻家」であり、以外は「立体家」と分けても良い時期に来ている。そうでなければ、彫刻家は近く絶滅してしまうだろう。
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