2009年5月10日日曜日

アマチュア・アートとプロフェッショナル・アートの違い

現代は、アート全盛時代だ。「アート」という言葉が至る所で踊っている。
当然ながら、Artは、芸術という意味だが、言葉に細かい感性を持つ日本では、もはや芸術とアートは別の意味を持っているように思う。芸術というと、クラッシックなものを指し、対してアートはより現代的でポップなものを指している傾向がある。ミュージシャンやシンガーも、アーティストと呼ばれる。むしろ、芸術に関心が薄い若い人はアーティスト=ミュージシャンの結びつきのほうが強いのではないだろうか。
さて、このアートという言葉の敷居の低さが手伝ってか、アートは何でもあり、という風潮が出来上がっている。それは、それでいいのだが、何でもありの拡大解釈からか、何の技術もいらない、果ては、感性さえもいらない、というものになりつつ有るように見える。

人の活動は、大抵始まりは、アマチュア(素人)から始まる。そして、そこから際立ったものを持ったものが、それを専門とするようになり、プロフェッショナル(専門家)となる。専門家とは本来、それだけで家計を支えているような人物であるわけだが、現代における芸術では、専門的な技術を持ち、際立った才能を持っていても、それがそのまま金銭に繋がらない現状があり、その時、彼は、技芸においてはプロでも、生活できないという点ではアマであるという、煮え切らない存在となる。そして、この”残念な”存在が、あまりにも当たり前となった時に、アマチュアとプロフェッショナルの壁が希薄なものになった。
そうして、才能をもつ芸術家は自身を失うことになり、アマチュアの芸術家が誰彼も自分をアーティストだと名乗れるようになった。際立った専門分野だった芸術は、アートという大衆文化に置き換えられつつある。マス(量)の力は大きい。

今、アマチュアとプロフェッショナルの違いを明確にしてもいいだろう。アートという、何でもあり(何も無いのも、あり!)の領域において、両者を圧倒的に区別するものがある。それは、作られるものが誰のためであるか、ということだろう。アマチュアのほとんどはその表現が「私から私へ」という自己円還運動をしている。鑑賞者はそれに同意するかしないかのどちらかでしかない。言い換えれば、作品がコミュニケーションをしていない。対して、プロフェッショナルは、「私から他者へ」作品が”開かれている”。
この、最終的な出力先が、内向きか外向きかは、両者を区別する大きなファクターであると思う。なぜなら、内向きであるなら、それは自分が許せばなんでもよい、の世界であり、そのことは往々にして品質の低下を招くが、外向きである以上は、認められるための努力が必要であり、結果として品質の向上を呼ぶからである。
近代以前の芸術は、ずっと宗教と共にあった。その時の作家は、作品を買い上げる王侯貴族や法王という具体的なクライアントのさらに後ろに、神という絶対的な審判者を想定していた。

質の高い、プロフェッショナルとしての品質を得るためには、そのくらいの厳しい要求をする他者が必要なのかもしれない。それを失った、孤独な現代の芸術家は、ある意味では過去よりも厳しい時代を生きていると言えるのだろう。

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