2009年5月1日金曜日

解剖学と彫刻の近似点

解剖学は、医学。彫刻は、芸術。この両者に共通点などあるようには一見思えないが、知っていくと以外や似ている。
まず、始めにして決定的なのが、どちらも形を取り扱う、という点だ。
彫刻といえば石彫や木彫、ブロンズなど必ずそこには物質がある。彫刻家は、表現対象を様々な物質に投影させて語らせようとする芸術家のことだ。
対して、解剖学は人体の形を取り扱う。一般的に、解剖学と聞くと、死体を切り刻むような印象を抱かれるものだが、その行為と解剖”学”には厳密に言えば違いがある。切り刻む行為を「解剖する」と言う。その行為によって得られた知識の体系を「解剖学」と言う。日本語だと、どちらも解剖という言葉が付くからごっちゃになってしまう。英語なら、行為の解剖はDissectionやAutopsyなどと呼び、学問体系としての解剖学はAnatomyと呼ぶのであまり混ざらない。とは言え、Anatomyを追求するにはDissectionは切り離せない行為でもある。
話を戻すが、解剖学は人体の形を探る学問である。人体の形には意味があるだろうということで、その形態が持つ機能を探ろうとする。目の前にある形状を重要視する。それを安易に数値化したり、概念化してしまおうとしない。非常に形状にシビアだ。その意味から、解剖学とは形態学Morphologyのひとつであるとも言われる。
このように、彫刻と解剖学の両者は、形態を扱う、それも人体と関係していると言う点でも共通しているのだ。

他にも、細かいことを言うと、解剖にはメスSculpelが必須道具だが、これは彫刻Sculptureと語源が同じだ。解剖は刃物で人体を切り刻み、彫刻は刃物で人体を削り出す。

また、解剖学と彫刻が抱える、現代における問題点も、どこかしら似た風である。
まず、どちらも一般社会から少し離れた所にある。解剖学を専門にしている人も、彫刻をしている人も、あまり身近にはいないだろう。それゆえに、一般の印象が一人歩きする傾向があり、現場の状況との乖離が起きる。まあ、これはどんな専門領域にもあるだろうが。
一般的には、解剖学は医学には当然必須であろうと思われている。しかし、医学教育の現場では時間数を減らす傾向にあると言う。各領域が高度に専門化している現代医学を広く学ばせるためには、解剖学の長時間の「拘束」が問題なのだ。しかし、医学の基礎であり、倫理教育的側面も持つ解剖学の教程をなくすことは考えられないという考えも当然で、互いのバランスの力点が模索されている。
彫刻の場合は、その言葉が指す意味合いの拡大化から来る問題がある。かつての彫刻といえば、素材は石、木、粘土が主だった。そして、表現の主題は人体などの具象だった。人体という複雑な形状を、加工が難しい素材に写し取るためには、立体感覚を養う訓練や人体の構造の知識など、高いスキルが要求され、しかもそれらは単に基礎能力だった。つまり、それらの能力を持った上で、芸術的な感性を持った表現が要求された。
それが、近代以降は、彫刻表現が多様化し、また化学素材の普及もあり材料も変化していった。今では、単純に立体的な表現を全て「彫刻」と漠然と呼んでいる現状がある。立体表現の敷居が下がったことで、従来の彫刻に必要とされたスキルも重要視されなくなり、結果的に、立体感覚に乏しい彫刻家や人体をまともに作れない彫刻家の存在が当たり前となった。

これらの問題は、各領域が自己の立ち位置を見失い掛けていることの現れである。医学における解剖学は、基礎医学としての側面を強調してもしすぎることはないだろう。それをアイデンティティーとして取り込んで良いのだと思う。
芸術における彫刻は、立体を扱うという行為そのものの重要性をもう一度見直さなければいけない。彼らこそが「彫刻家」であり、以外は「立体家」と分けても良い時期に来ている。そうでなければ、彫刻家は近く絶滅してしまうだろう。

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