解剖と彫刻は、共に物質の形状を追う。解剖も彫刻も現在は細分、多様化しているが、ここで言うそれは、解剖では肉眼解剖であり、彫刻では具象人体彫刻を指す。すなわち、それぞれの根源的な形、クラシックである。
私は、クラシックという部分にこだわりたいと思う。クラシックだから良い、のではなくて、良いものはクラシックに見つけられる、と信じるからだ。
彫刻表現が多様化し、それは現在では物質感から遠ざかりつつあり、作家個人の心象を形に託す、というものが主流となって久しい。物質感が希薄になるということは、形状が持つ構造が作り出す美に対しても関心が薄れていくということであって、実際に昨今の立体作品では、物質形状の美しさを持っているものが少ない。
作家の主張というものは、時と共に流れてゆくものである。それはやがて風化するだろう。その時、残された作品に形状の美しさが無ければ、それの価値はどこにあるというのか。私は、彫刻はまず一義的に、形状の美を持たなければならないと思う。心象は、それが出来て初めてそこに乗せる事が許されるものだ。
人体には、構造と形状の美が限りなく詰まっている。それは、全体にもあり、部分にもあり、解剖的内部にも見いだされる。
美とは、そこに転がっているものではない。つまり、絶対的な美など存在せず、感じる側がその準備が出来ていなければ、多くの美を見つけ損なうだろう。人体の外形、すなわちヌードは、人体が持つ美のもっとも基本的で、揺るぎのないものとして歴史的にその地位を保っている。裸は、我々が人類の歴史を通して常に見てきたものだから、そこの美を見つけ出すのは当然だろう。なぜ、そこに美があるのか、それには規則があるのか、そういう視点で古代ギリシアの芸術が作られた。その基準は現在でも息づいていると言ってもいいだろう。
人体の内部も古代ギリシアから見つめ続けられているが、その行為は、常に死と結びついており、また、それにより得られた知識は医学へと応用されるために、そこから美の情報はあまり積極的にくみ出される事は無かった。16世紀のイタリアでは、ルネサンスの追い風の下、芸術家が体内の構造に目を向けたが、それらはあくまで、造形のための資料としての観察であった。ただ、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した解剖手稿からは、彼が解剖学的構造そのものに芸術的な意味を見いだしていた事が伝わってくる。
その後も、いわゆる芸術的な解剖図というものが歴史的に幾つか描かれているが、そこには死のアレゴリーとしての表現や、解剖という概念を描写したという印象を抱くものが多いように思う。19世紀に入ると、芸術と医学は完全にたもとを分つようになり、解剖図譜は医学的な情報伝達手段としての純粋性が高まっていった。それは、図譜の芸術性が薄れていったことと同義である。以来、芸術における解剖の位置づけは、人体表現のためのリソースということになった。高度に発達した肉眼解剖学から知識を応用したのは良いが、そのことで、実際に芸術家は解剖をすることはなくなり(社会倫理的背景もあろうが)、与えられた知識を信じるしかなくなった。これは、芸術家が人体内部に存在する構造の美を発見し得なくなったことを意味する。それは、解剖学者だけの特権となった。彼らは、そこに美を見いだすだろうがそれを芸術に昇華する術を持たない。
現在、芸術家が応用できる解剖学的な情報と言えば、解剖学者によって整理された人体内部の構造と、それらの機能というソフト的なものである。
私たちは、人体の内部を見る、知る、ということにある種のタブーを感じる。それは、そこに死の意味を招き入れてしまうからであろうが、芸術家までもがいつまでもその感情に縛られているのは不思議でもある。医学者、解剖学者は早々にそこから脱却し、人体内部を探索してきた。そして、多くの発見を積み重ねてきた。
芸術家も、解剖イコール死、というステレオタイプを外しても良いと思う。その準備ができて、人体の内部構造を見た時、そこには今まで見えなかった驚くべき構造の美に気がつくのだろう。それは、アレゴリーでもグロテスクでもない、純粋に形状が生み出す美しさのはずだ。そして、まずそれに気づくべきは、彫刻家であってほしい。
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