2019年3月5日火曜日

蛇口を操るカラス

   公園の水飲みを器用に使うカラスが話題になっている。付近では知っている人が多いようで、以前からしばしば目撃されていたようだ。それを鳥類学者が調査して、これは確かに賢いというので発表したところ今回の評判となった。カラスが賢いというのはよく知られているが、学者曰く水の量までコントロールするのは相当なもの。映像で見ると水飲み用の上向き水道の栓を嘴で少し回して数センチ水を出し、そこに嘴を付けて飲んでいる。次は栓を更に回し噴水のように水を出して水浴びをする。楽しそうだ。少し前には駅の自動券売機で切符購入の振りをするカラスも話題になったが、学者曰く、これは飼いカラスが真似遊びをしているのであって、今回の野生カラスの行動とは本質的に異なると。

   何が賢くて、何が賢くないか、それは捉える側の判断で異なってしまう。券売機のカラスはもちろん電車に乗るために必要な券を購入しようとしていたのではなく人間の行為を真似に過ぎない。つまり、行為と目的が一致していない。水飲みカラスは、それが一致している。だからこちらが賢いのだと言う。しかし、水飲みカラスの栓回しもおそらく人間の行為を真似たのだ。こちらは、「栓を回す、水が出る」と行為と結果が単純である。結果としての水の使用目的はカラスはすでに知っている。つまり、これは飲むもの浴びるものだと。対しての券売機を使う理由と使いかたを理解するのは、単に機械のボタンが押せたところで理解できるものではない。行為と目的の複雑さが比較にならない。仮に券売機ではなく、タッチディスプレイを押したら水が出る機械だったなら、モノマネ券売機カラスもおそらく水を出して飲んでいただろう。
   公園の水飲みなど一度も見たことのないカラスが今回の行為に至ったのなら、それは相当な知性を感じさせる。また、このカラスが飛び立つ前に栓を閉めているなら、それも知性的である。しかしそれはしていない。当然である。カラスは水道水に料金が掛かるなど知らないし税金も払っていないのだから。人間でも23歳の幼児では水道をうまく使えないと言っていたが、幼児は自分で水道を使う必要がそもそもない。


   人間の作った道具を操っているから高度、なのだそうだが、カラスが自然物と人工物を区別している訳でもない。私はむしろこう言ってほしい。我々が知性的だと信じていた行為が実はカラスができる程度のことだったと。

2019年2月14日木曜日

革製品とその強さ

 革製品は丈夫だと言われるが、それは素材の革が丈夫だからで、長く使用していると大抵は縫い合わせがほつれて使えなくなる。つまり結局は、縫製の強度、糸の強さが革製品の寿命を決めている。

 革の元である真皮はコラーゲン線維を絡み合わせたようになっている。これを植物線維で人工的に再現したような物が紙だ。ただ紙の線維の絡み合いは皮とは比べ物にならないほどゆるく薄いので簡単に引きちぎれる。コラーゲン線維はそれ自体が強靭であるうえに、非常に緊密に絡み合っているので、全体としての引っ張り強度が高い。線維のランダムな絡み合いなのでどこかの線維が千切れたとしてもそこからほつれていくこともない。ランダムであることが全方向への強度を担保している。線維を編んだ布は当然ながら糸の並びが一定であり、そのため強度にも方向性がある。また、編まれている糸も整然と並んでいるので、その一本が切れると、その糸の列全体の力学が乱れ、そこと直行する糸列との力関係も乱れる。だから人工的な布はその整然さ故に、最高のパフォーマンスは新品時にあって、使っていくほどにそれは減弱の一途を辿る。いっぽう革にはそれがない。一本のコラーゲン線維は長くはないし、整然さとは真逆の混沌とした並びをしているので、どこかの線維が切れてもその影響は最小限に抑えられる。同様の強度がある人工物としてはフェルトがある。フェルトは動物の毛を使っているので、紙とは違って動物性であり、その点でも革と近い。ただ、組織学的には体毛は表皮由来で、真皮由来の革とはわずかに異なる。フェルト製品を手で引きちぎろうとしてもまず無理である。見た目にはふわふわして弱そうに見えるが、そのゆるさ故に、引っ張ると線維が一斉に牽引方向を向き一本の太い縄を指でちぎろうと努力するような力学関係となる。

 織られた物、ファブリックとしての革やフェルトは、柔軟さと強靭さを併せ持った理想的な素材である。そのうえ革は皮としてすでに織りあがっている。人類が初めて使用したファブリックは狩った獲物の皮だったろう。皮(スキン)を腐らないように加工した革(レザー)を身にまとうには、穴を開けて紐でくくる必要がある。衣類として快適に用いようとすればいくつかの部品に分けて縫い合わせる必要も出てくる。「縫う」という行為もしくは技は、革と革とを結びつける必要性から生まれたのではないだろうか。木綿の衣類が現れるのはずっと先になってからだ。おそらく、初期は革同士を革紐で縫っていただろう。太い革紐は強靭である。やがて、植物繊維から糸が作られ織物が生まれた。織物を縫い合わせるのに植物性糸は相性が良い。強度も似ているからだ。しかし強度問題はこの時生まれた。つまり、強靭な革素材を植物性糸で縫い合わせるようになったのである。引っ張り力が加わると、線維がランダムな革では張力は分散し減弱していくのに対して、方向がまとまっている糸は張力が逃げず張力に負けて断線する。

 現在の革製品は、人類が手にした素材として最も古いであろう革と、それより新しい素材の植物性糸からなる。両者はそもそも作られた目的が異なるのだから、その間に強度差があるのは当然である。縫製が切れないようにナイロンなどの強い糸を用いることもあるかもしれないが、今度は縫い穴に過度な負荷が掛かって縫い目から切れるだろう。糸の強さは本質的な解決策ではない。問題は張力の伝達である。革の線維同様に短い線維をランダムかつ緊密に絡めされることができれば理想的だが難しいだろう。革の裁断方向とその形、そして縫い方の工夫によって張力を減衰させるやり方が現実的である。動物の皮は概ね全方位への引っ張り強度を持つが、縫製でそれを再現することは厳しいだろう。しかし、ジャケットやバッグ、靴などそれぞれの製品ごとに張力の向きはある程度規則性が見られるはずだから、それに見合った形の裁断と縫製を工夫することで、相当の商品強度を持たせることは可能だと思われる。特にジャケット(やパンツ)であれば、人体の外形研究だけではなく、筋の走行が相当なヒントを与えてくれるはずだ。そのようなアプローチを研究して開発された製品を私は未だ知らない。作って見たい気もする。











2019年2月8日金曜日

本の使い方

   本を分解してしまう。本を購入して先ず最初にすることはカバーを取ることだ。カバーが付いていると読む時に本が上下にずれて煩わしい。著者の情報や価格などカバーにしか書かれないこともあるのだが、読む時の煩わしさが優って結局は取り外す。カバーは人の外着のようだ。自分を包み込みながら、それが何なのかを表現し、手に取ってもらうアピールも兼ねている。だから、専門書のように値段が張る本になるとカバーも凝ったものが多い。そういうものは紙質も厚くて良く捨てる気がひけるのでしばらく取っておくのだが、いずれは結局捨てる事になる。
   専門書だと、表紙と裏表紙が硬い厚紙のハードカバー版も多い。これも本によっては切り取ってしまう。硬い表紙だと手に持った時に曲がらず板を保持しているようで疲れる。硬い表紙を開いたところに刃を入れて切り取るのだが、ひとつながりの背表紙も無くなるので、いかにも作り途中と言うか、もしくは壊れかけのような見た目になって、書籍が纏っていた威厳はいっぺんに失われる。しかし、背表紙が妨げていた折り広げが解放され、それがしなる紙葉の束と相まって保持しやすさは格段に向上する。硬い表紙の無い書籍は、紙の厚い束のような物なので、棚に立てておくと簡単に自重でひしゃげてしまう。物としての寿命は確実に縮むだろうが、読んでいるうちにページが取れてしまうというような事は今まで無い。表紙はあくまで出来上がった書籍にかぶせる下着のようなものだ。
   雑誌は読むページだけを切り取る。厚い専門書のいくつかは、章ごとに切り分けてしまったが、これは持ち運ぶのに便利で、医学部学生のアイデアを参考にした。本によっては、必要ない情報の章やページがあるので、そこは切り取ってしまう。
   書き込みや線引きも多くするのでペンを手元に置いておく。もちろんそれらは、読み返した時のためなのだが、最近は読んだことの記録に過ぎないというか、犬のマーキングに近いような気もする。年齢とともに、読んだ事が頭に素直に入らなくなった。そのおかげで、毎回新鮮なのだが、そこに書き込みがしてあると、忘れていた過去に再開したような感覚がある。今考えているような内容のメモ書きを見つけて、その日付けが10年前だったりすると、停止している自分に唖然とする。付箋も多用する。だんだん増えて付箋だらけで返って読みづらいという逆転現象に陥ってから抑えるようにしている。久しぶりに開く本などで用済みの付箋を剥がしていくのは気持ちが良い。
   
   先日立ち読みした本で、養老孟司先生が本のページは破ってしまうと言っていた。切るのではなく破るというところがすごい。した事がある人は分かるだろうが、本のページをきれいに破り取ることは非常に難しい。ただ引っ張ると根元から取れるが、雑誌などでは繋がっている反対側のページも取れてしまう。それを気にして力加減を誤るとページ途中から切れる。養老先生が破ったページを見てみたい。
   朝カルを受講頂いている方が、本は2冊買って1冊はばらして読むと言っていた。本は買ったままで読まなければいけない訳はなく、自分のスタイルがあって当然なのだ。


   グッゲンハイムのジャコメッティ展には、彼がボールペンでデッサンを描きこんだ新聞紙や本も展示されていた。中にはエジプト彫刻の大きな写真集もあって、その解説ページの広い余白に写真の彫像を模写しているのだ。白い余白は描ける場所。確かに高校生の頃は教科書の余白はそう見えたが、画集の余白に模写しようと思ったことはない。目的と対象との関係について、その重要性の比較について、ジャコメッティのボールペン素描を時々思い出す。書籍を物として大事に扱う事と、分解して書き込んでしまう事の間にも同じ比較が横たわっている。

2019年2月4日月曜日

レンズ

   レンズは道具として作られるので、それ自体はあまり注目されない。カメラなどの光学機器の価格は安くないが、それは高級一眼レフの交換レンズを見れば分かるように、レンズの価格である。レンズの表面で進行角度を変える光線の向きがバラつかないように、表面は厳密に角度を変えて磨かれていなければならないので、加工技術には精密さが求められる。結局はその工程がレンズの価格に反映しているのだろう。良いレンズかどうかは、良く見えるかどうかで測られる。レンズを通した現象がそのものの価値となっている。だから、良くできたレンズはその存在を感じさせない。実際にもレンズに用いられるガラスは非常に透過性が高い。

 レンズが単体で置かれている時、私たちの目はそれを見分けるが、それは石や本を見ているのとは少し異なる。そこで見ているのは、実はレンズそのものではなく、それが曲げた光線の先にある反射物である。レンズは決してそれ自体を見せないのである。
 景色を反射する水面や、光を集めて輝く水滴などは純粋に我々の興味を引く。水のように光を透過したり反射させる天然の水晶や人工的なガラスは、古くから人々の興味を惹いてきた。水晶玉は占いの象徴だが、世界を違った形に歪ませてみせるそれは、異界を覗かせるレンズのようだ。肉眼では見通せない限界の先を、レンズを通すことで見ることが可能となる。
 ところで、水晶やタロットカードやロールシャッハテストでは、一見では何か分からない視覚的対象を見て、それをどう見るかもしくはどう読むかが判断対象になる。そこで大事なのは意識的にコントロールできないランダムさである。そうするためにタロットはシャッフルされ、ロールシャッハは紙を二つ折りにする。天然の水晶玉は結晶ゆえの透過の歪みや不純物があり、それが占う際の読み取りに重要だったのではないだろうか。

 光を曲げる玉は、その純度を高めていくことで占術から離れ工学の材料となった。ここで求められるコントロール可能な精密さは、水晶玉の方向とは真逆とも言える。制御された透明なレンズは、人間の視覚能力の拡大に貢献しつつ、自らの存在感をどこまでも透明にしていく。

2019年1月15日火曜日

日本美術解剖学会の記録


 取り立てて喧伝するような活動をしているわけでもない私に、発表の機会を頂いた。同学会幹事でもあり今回の(そして常連の)発表者でもある小田先生の発案との事で、とても嬉しい。小田先生とは、多く話せなかったが、「(私が)いつも聞いているほうだから。もっと発表すべき」と言われたことが印象深い。

   その小田先生がご自身の発表(筋骨格図の製作過程)の中で数回、「肋骨を描くのが辛くて辛くて、発狂しそうだった」という事を言っていて、そこに私は強く同感し頷いていた。「骨格に比べたら筋は簡単」というのも、全く同意である。骨格それも脊柱と肋骨は同じ形状の繰り返しで、中でも肋骨はほとんど同じカーブを何本も描く事になる。その上ただの縞模様を描くわけでもなく周辺構造との関連性や立体感を維持しながらそれをしなければならないので、非常に辛い。輪郭線から始めるとなると、一本の肋骨に対して上下に2本の線を描く事になり、また、肋骨と肋間の区別がその段階では表現されていないので、ただ何本も鉛筆のカーブが描かれているだけのように見えて、その確認でも精神を消耗するのだ。
   私自身も、解剖図作成で体幹の骨格を描くのが最も気が重い。そんなのはしかし誰とも共有できるような感覚ではないと思っていたが、やはり他にもいたのだと分かっただけで今後は気が楽になるだろう。

   私の発表内容は2016年末に出版した自著の製作過程の紹介だった。その中で、粘土写真を使った理由の説明過程で、解剖書の解剖図が現在のように前後上下の直交視点になったのは1858年のGrayからのように見えるが坂井先生にお聞きしたいと言ったところ、後の坂井先生の発表中に、Grayの木口木版で本文と同ページの印刷が可能になった事が影響しているだろうとの返答をいただいた。
   発表後すぐ、坂井先生に「いやぁ、色々やってるんですねぇ。」と言われた。

   その坂井先生の講演は、医学の立場からということで、「言葉 Literacy」を美と並置した内容であった。医学における美と言語の並置とは、つまり解剖図である。坂井先生の膨大な研究に基づく深い知識から掬い上げた簡潔な言葉で論理的かつ明解に組み上げられた発表は、ほとんどそれ自体が構築的作品である。「アルビヌスの解剖人は私たちの世界とは異なる悠久に立っているようだ」との言及は詩的で主観的にも聞こえるかもしれないが、それはアルビヌスの作画過程とその前後の解剖図と医学の変貌の流れを踏まえているからこその真実味なのだ。

   剖出(ぼうしゅつ)に技としてのアートを見出している加藤さんの発表は、まさに解剖写真の見どころを示していく内容だった。人体を内部構造を意識しながら造形する作家には直接的に役立つ情報の数々だった。よくできているものほど違和感がないので、そこに至る過程などは見えなくなるものだ。加藤さんによる剖出の丁寧さによって、そこに至る労力は見事に隠されていた。発表中の笑顔に解剖への態度が現れていた。

  東大博物館の遠藤先生による司会のMCの安心感たるや真似できるものではない。私の発表中にそっと手渡された紙の切れ端には「そろそろ終わりましょう」と走り書きされていた。これは記念に取ってある。

   会の後半は、演者の4名が前へ出て質疑やディスカッションを行う予定だったが時間がなく、数名の質疑応答のみ。「ヌードモデルの観察で、前と後の腸骨棘の関係性がずれて見えたことがあるが、動くのか」という質問には、全員から動かない、ずれないという回答。しかし質問者(学生)はずれていたという実感があるのだから、その主観的事実を重視すべきだとも答えた。ずれたり動いたりはしないが、人間が自然物である以上、個体差として前後の高さが異なることは十分に有り得る。だから、それがどのように違和感を感じさせたのか、が知りたいところではあったが時間の関係上それ以上は話は進まなかった。私としては、そういう視点で人体を構築性から観察する学生がいることが嬉しい驚きである。確か彫刻科と言っていたような。
 また、私の書籍で用いている材料が安価なものばかりなのはなぜか、という質問も受けた。まさしく、それが売りの一つと思っていた事なので気付いてもらえて嬉しかった。粘土で人体を造形するというのは非日常的行為なので、特殊な材料が必要になると実際に作ろうとするハードルが高まってしまうだろうと考えたからだ。芯材の価格は500円もしないものだが、それでも街のホームセンターなどには売っていないので、実はまだハードルは低くない。本当なら、100円ショップの材料で始めた方が良いのかもしれない。もちろん理想は、ダイソーが芯材を販売してくれることだが。懇親会にてこの質問をされた方と話すと、大学は違えど彫刻科出身との事だった。私よりずっと先輩だが。

 美術解剖学という狭い領域に興味を持つ数少ない人々が集まれるこのような場から、次の展望が広がればと思う。