2009年12月19日土曜日

彫刻と色彩

現代、私たちが彫刻と聞いて思い出す物に色彩はあるだろうか。ブロンズ像、大理石像、木彫と材質は様々あるが、ほとんどはその素材がそのまま作品の表面である。寺の仏像も彫刻だが、私たちのイメージのそれは木や漆の地肌が剥き出しになっているものだ。
芸術の起源は信仰と結びついており、彫刻も起源をさかのぼると各時代、地域の信仰との関係が強くなる。そして、信仰色が強まるほどに作品に色彩が施されているように見える。くすんだ表面のイメージが強い仏像も建立当初の復元などを見るとどぎついばかりの原色に彩られていた。ギリシアの大理石像たちも、当時は鮮やかに彩色されていたという。それはつまり、リアリティーを追い求めていたということだろう。私たちの肌や衣類と同じ色が欲しい。より高貴ならば貴重な色で差別化を計ろうと金箔や希少原材料の色が選ばれた。
彫刻から色彩が分離されたのは、彫刻が表現技法としての自立を果たしたことの表れとも言えないだろうか。そもそも、絵画も彫刻も実世界の再現という同一の目的が根底にあったはずで、だからこそ色彩があるものを再現するなら色彩を施すのは当然だったろう。やがて、芸術が宗教からの自立を図ろうという「自我」を持ち始めたとき、絵画と彫刻もその方向性を明確に意識するようになったのではないか。

ともかく、現代において芸術の彫刻は一般的に彩色されない。それは、現代の彫刻が必要とする本質的命題にそった正しい方向性であると思う。つまり、存在感の追求である。
芸術は自然の再現である。私たちの言う自然とは、人工物を除いたそれ以外の存在であり、それは色彩にあふれている。それを再現しようという欲求が人類に「絵の具」を発明せしめ、絵画が誕生したが、彫刻はやがてそれを放棄するに至った。それはしかし、当然の成り行きなのだ。なぜなら、色の付いた彫刻は「うそっぽい」からだ。色付きの彫刻が嘘っぽいのに色付きの風景画に魅せられるのは何故か。それは、再現対象が違うからに他ならない。

在る人物のポートレイトを画家と彫刻家がそれぞれに制作するとき、勿論、両者ともに色付きの人物を見ている。では、色とは何だろうか。根源的なことを言ってしまえば、そもそも色は外界には存在しない。それは、脳が生み出す感覚に過ぎない。私たち生物が生きるために外界を視覚的に判断するために生み出された感覚の一つである。私たちが色と感じているのは、特定領域の光である。つまり、この場合では、モデルの人物に反射した光線を眼が拾ったものが作家が感じる色となり、画家が描く人物画とはモデルに反射した光を描いていると言い換えられる。それに対して、彫刻家が作るのはモデルそのものであるから、もし彼がそれに色を付けるとすると、光が反射する対象の色を作っていることになる。絵画は、自然が目に映ったものを再現するのに対して、彫刻は自然物そのものを再現しようとする。自然物に色を塗れば嘘っぽく感じるのは当然である。

彩色彫刻の違和感は昔のひとも感じていただろうが、信仰彫刻は言わば記号であるから、構わなかったのだろう。彫刻が「芸術」として独り立ちをすると、速やかにそれは捨て去られた。発掘されたギリシアの(色は消えている)彫刻を見れば、彫刻的感動に色は必要ないのが体感できる。

感動は、付随する要素が多すぎると散漫になり希薄になる。単純すぎてもいけないが。彫刻的な感動は、量と構造で生み出し得るものであり、色彩は時に助長に過ぎないのだ。

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