2009年12月2日水曜日
形の根源的要素 球
世界はかたちで出来ている。私たちの目はそれを捉え、手はその質量を感じ取る。全てが実に複雑な形態をしている。殊に自然物は一見とらえどころがないほどに複雑に要素が絡み合った形態を見せる。対して人工物は比較的分かりやすい。それは、私たちの脳から生み出された、概念を根源とする形状だからだろう。
その頭の中で見いだされた、根源的な形状がある。幾何形体ともプリミティヴ・オブジェクトとも言われるが、いわゆる球体や立方体や円錐などのことだ。その中でも、球体は特殊である。それが、球体以外の形状とは全く別次元ほども違うということは、誰でも言葉に出来なくても何となく分かるのではないだろうか。球体の定義は色々あるだろうが、完全対称性ということが球をそのほかと分ける一番目立つ性格のように思う。完全対称とは、究極の無性格と言い換えても良いだろう。
私たちは、形を見るとき、そこに何らかの性格を見いだす。円錐形を見ればそれはとがった方向に進みそうな印象を与えるし、長い円柱なら長軸方向の動きを見いだすかもしれない。私たちのそういうクセを使って様々なものが「デザイン」されている。スポーティな商品は鋭角な要素を、安心感が売りならば角は落として・・。そういう目で見たとき、完全な球体ほど退屈な形状はない。そこにはいかなる動きも性格も見えてこない。
体積比で最小の表面積である球は、自然界の振る舞いから見えてくる最も根源的な形態である。雨粒のように空中に放たれた水は速やかに球体になる。渓流の尖った岩は下流に転がされる過程で角が取れ磨かれ丸石となる。標高8000メートルから水深10000メートルまでの凹凸を持つ地球は少しずつ浸食と堆積によってならされ続ける。全ての物質は、その振る舞いとして球体を目指しているように見える。動きのある形態から動きのない球体へ。完全な球体、つまりそれは、全ての動きを吸収しきった状態である。これは、エントロピーが最大の状態と言い換えられないだろうか。もしも、物質が完全な球体になり、そこで活動が停止するのならば、それはエネルギーとしての死を意味する。ならば、球体は死を意味する形なのだろうか。
ところで、生き物が生まれてくる始まりはどんな形をしていただろう。
私たちは初め、卵という球体だった。それは単一の細胞で、初めから人の形をしているのではなく、丸い球だ。球体が未知の機序に従って設計図に則り、次々と分裂、分化を繰り返して複雑な生命体へと成長してゆく。
「玉にきず」という言葉がある。この玉は球ではなく「ぎょく」を表しているのだろうが、美しく磨かれたものという意味において、球と置き換えてもいいだろう。完全に近いものほど、小さな傷が目立つ。全ての物質が球を目指していながら、完全な球を見ることはない。研究機関で研磨して作る試みが続けられているそうだ。精密な球もひとたび落としてしまえばそれが失われる。物質は球を目指しながらも、外力によって球から引き離される。それは、静から動が生まれる瞬間であり、満たされたエントロピーが消され、再びエネルギーが与えられる。
私たちを構成する細胞には分裂可能回数に限りがある。細胞が分裂出来なくなれば、体は死へと向かうしかない。しかし、減数分裂している卵と精子が出会う時に、この分裂回数はリセットされる。老いから若さが生み出されるのだ。このとき、球体は生命を意味する形となる。
こうして見ると、物質と現象は、球を中心にすえた「ゆらぎ」であるように思えてならない。それは、何らかのかたちで外的にエネルギーを与えられることで、いったん球体から離されそこから性質として球へと戻ろうとする。その繰り返しが続く限りは、揺らぎが止まることはなく、現象は持続される。それは、宇宙全体のエントロピーが満たされるまで続くだろう。
球体は、その無性格さのなかに生と死をはらんでいる。その意味でも形の根源的な概念と言える。命ある形態を現そうとする彫刻においてもその潜在的な重要性を見落としてはいけないだろう。
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