2009年12月21日月曜日

骨と彫刻


骨と聞くと、普通は死や不気味な印象を持つだろう。動物が死なない限りは骨は見られないのだからその連想に間違いはないが、そこで引き返してしまわずに、一歩近づいてそれを見て、手に取ると、誰でもそこに形の美しさを見いだせると思う。とは言え、現代社会では、道ばたに骨が転がっているわけでもないし、裏庭で羊をさばくこともないから普通に生活しているとその美しさにふれる機会もないのが実情だ。博物館で骨格標本を見ることは出来るが、ガラスケース越しに学術的な趣で鎮座しているそれでは、形の美しさまで見出すのもなかなか難しいかもしれない。それでも、今はインターネットがある。ネットオークションでは、動物の骨が多く出品されている。アメリカなら売れば逮捕されるような希少動物の骨もなぜか日本では”今のところ”おとがめがないようだ。また、海外では動物の骨格専門の業者などもネットショップを出しているので、それらから購入することも出来る。金にまかせるのではなく、自然な出会いが欲しければ、海岸に行くと良い。台風後などは色々な動物が打ち上げられているそうだ。潮がぶつかる浜が良い。五島列島は鯨が上がると聞く。山も、浜のように豊富とはいかないだろうが、運が良ければ動物の骨を拾うことが出来る。そういう気構えで行くと宝探しのようで楽しいものだ。

美しい形態を探している彫刻家には、骨の形態に興味を持つひとが多いように思う。ヘンリー・ムーアは、骨の形をそのまま素直に作品に活かしていることが知られている。ムーアのようにモチーフとしないまでも、直感の源泉として骨を所持している作家は多いのではないだろうか。
実際、骨のかたちは実に彫刻的である。彫刻的な美を所有する形状を学ぶのにこれほど適した教材はないと思う。立体美を考えるときに思い浮かぶような要素の殆どを骨から見出すことが出来るからだ。

地面に転がる一つの骨も、理科室の人骨も、どちらも骨と言うが、英語では、一つなら「a bone」、複数なら「bones」で、理科室の物のようなのは「skeleton」となる。スケルトンは、日本だと内部機構が見える腕時計をスケルトン仕様というので、「透けるトン」だと漠然と思っている人が意外と多いが、「骨格」という意味だ。

人体の骨格は、200以上の骨から成っている。そんなに多いかと思うが、左右対称なのと、手足部分の細かい骨達のおかげもあってカウント数を稼いでいる。また、一個だと思いがちな頭の骨も実は23個の骨の集合体なのである。耳の中の小さな骨も入れれば29個にもなる。

骨ひとつひとつが彫刻的な示唆を含んでいるが、その最たるものが頭蓋骨と言っていい。ただ、頭蓋骨は動物によって形が全く違う。マッスを感じるには、大きな脳頭蓋(脳を納める部分)を持つ人間のものが最高だが、これは模型で我慢しなければならないだろう。だが、模型はあくまで模型で、骨の持つ良さが実はもう100分の1程度しか感じられない。いずれにせよ、ほ乳類は全般的に大きな脳頭蓋をもち、そこに内から張り出すマッスを感じ取ることが出来る。それだけでなく、内側が空洞であるということも要素として大きい。彫刻は外側しか鑑賞しないものだが、物性はソリッドなのかホロウなのかも実は大きく関係してくるものだ。もし、中まで土でつまった有田焼の壺があったら、どう思うだろうか?ギリシア彫刻の内部がスチロールだったら?
そして、複数の骨が巧みに組み上がって一つの形を成す様は、部分と全体の関係性を考えさせる。その合わせ目が凹凸を縦横に横切って走る様も彫刻における表面の見え方にヒントを与えるものだ。筋が収まるための窪みも、陰と陽の重要性を語るだろう。

頭の骨以外も、背骨など要素に富むが、中でもとりわけ際だって魅力的な骨がある。それは、足首の骨、距骨(きょこつ)だ。頭蓋骨のように組まれた構造ではなく、単一の骨で彫刻的な要素を持っているのは距骨だけだと思う。背骨を構成する椎骨も良いが、これは体の真ん中にあるからシンメトリーで、そこが形態に過剰な単調さを与えてしまっている。距骨は左右に一つずつだから、単一だとアシンメトリーになり一見では捉えきれないような形状になっている。構造体としても、上から降りてくる体重を足に伝えつつ、足首の運動の軸となる部位であり、その複雑な働きが形状として現れているのだろう。回転運動の為のなめらかな滑車や靱帯が付着するための溝などが交差して非常に魅力的な形状を成している。
人の距骨も美しいが、他の動物もやはり魅力的だ。その形は昔から愛されていた。古代ギリシアでは、動物(おそらく山羊の仲間)の距骨がサイコロとして使われていた。そして、その形を模した壺なども多く作られた(画像)。それは単なるサイコロ以上の愛着を感じていた証ではないか。現在でも、モンゴルでは伝統的な遊びの駒やサイコロとして羊の距骨が使われている。彼らは遊牧民族で山羊は身近な存在である。彼らもサイコロとしてだけでなく、お守りとしての意味もそれに与えている(オオカミの距骨など)。

骨は、人類が遠い昔から見つめてきた形だ。先史時代の骨を削った彫刻も発見されている。私たちは、ずっと昔から骨の形より直感を得てきたのだ。そう考えると、骨に彫刻的要素の根源を見るのもおかしいことではないように思う。

画像は共にネット上からの無断借用。

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