人間の存在を考えるとき、人間の形態を忘れるわけにはいかないはずだが、私たちの思考は容易に「精神」と「肉体」を概念分け出来るので、考えるときに肉体を置き去りにしがちである。
精神は心に在ると言われる。永い時代、心の所在が議論されてきた。それが宗教と結びつくことで精神と肉体の分離がより明確になり、精神は肉体より高貴な位置を与えられ不滅の対象ともなったが、一方で、科学の進歩と共に客観的視点の有効性が認められると、様々な観測的事実から心と感じるものは脳が作り出していることが明確になってきた。
現在は、脳ブームだと言われる。前世紀末期から、今世紀は脳の時代になると言われていた。それは、脳の機能が前世紀末から次々と明らかになり始めていたことによる。とは言え、実質的には、脳の機能はまだほとんど分かっていないという。
ともあれ、標準的な現代人なら、人格や心は脳が生み出しているという意見に異論はないだろう。では、これは、かつて魂と肉体を分けていた人たちよりも前進したと言えるのだろうか。私たちは、脳を精神の器と考えてはいないだろうか。つまり、かつての「精神と肉体」の2元を「脳と肉体」と言い換えたのに過ぎないのではないか。
先日のテレビ番組で、延命の行き着く先の技術として、脳を若い肉体と入れ替えるというアイデアを紹介していた。ほぼSFだが、このアイデアが理解し納得されるところに、「脳=自己存在」という暗黙の了解を見る。
解剖すれば、確かに脳は物体として分離出来る。しかし、それは工場で作られるパソコンに最後にCPUを差し込むようなものではなく、たった一つの卵から分岐した最終結果としての形状である。両者は概念こそ似ているだけでむしろ真っ向逆を行くものと言えるだろう。
脳はどうやって出来るのか。それは、個体発生学が見せてくれる。なぜ、脳があるのか。それは系統発生学が見せてくれる。そして、その両者を比較解剖学が取り持ってくれる。
そこで見えてくるのは、脳と肉体は不可分である、という事実に他ならない。肉体は脳の為の労働者ではなく、私たちの人格は脳だけで完結しているのでもない。そもそも、脳と肉体の分化は単に 必要に応じた機能分けの結果に過ぎないはずだ。私たちが、生物として今ここに立っているのは、脳が肉体を操ってきたからではなく、両者不可分の協力によるものだろう。つまり、精神も心も肉体全てから生み出されると言って良いのだ。
私たちは、肉体という物質だ。それが、様々に考え、思い、文化を生み出すことが驚異なのだと思う。あえてもう少し意識的に、自己を物質性から見直すのも悪くない。解剖学はその大きな手助けになる。
0 件のコメント:
コメントを投稿