海外へ出ると、日本の事がよく分かると言う。私たちは、生まれたときから日本に囲まれてその文化価値観に浸かっているのが、海外に出るとそれが外側から見えることで、新たな発見ができる。この感覚こそ「目から鱗が落ちる」体験であろう。同じ対象を見つめているのに、違うように見えるようになる。
国なら、外に出て眺められるが、自分の体はそうはいかない。だから、生まれたときから付き合っている自分の体の事を違う目で見るというのは難しいことだ。しかも、食べたものの処理や成長やらを自動でしてくれるから、特に気を配ることもしない。大きな怪我や病気をすると、自分の肉体のことを気を配ったりする。
外に出られない自分の体について客観的に見つめる方法が、解剖学でもある。これによって、「自分」が「人間」という見方になり、さらにその構造と機能にまで分解されるのだ。そうなるともう、自分という感覚ではなくなる。そして、再度自分を見つめるときには、今度は分解された構造と機能の集合体として見られるのである。
また、別の見方として、比較解剖学がある。名前の通り、人間と他の生き物の構造を比較する。そこから共通点や違う点を検討し、相関関係を見出してゆく。この視点は、海外から日本を見るのに近いと言える。比較解剖学には、進化という時間性も検討に加わってくる。比較する他の動物たちとの分岐点を見ることは進化の時間を遡ることと同意だからだ。
こうして、外の視点から人間という自分自身を見つめ直してみると、目から鱗が何枚も落ちる。自分の見え方が全く変わってしまう。この体験はとても刺激的でちょっと癖になるほどだ。もう、猿どころか、魚まで遠い兄弟のように思えてきてしまう。
また、漫然と付き合ってきた自分の体も、以前とは違う対象として感覚されるようになる。それは、つまり自分自身のあり方まで変わってしまうようなものだ。
哲学や宗教、メンタルヘルスなど様々な「方法」で、人々は「自分」と向き合う方法を探っている。それらはすべて、思考技術だ。精神、魂、思考など、ソフトウェアとして自己を探っている。対して解剖学は、徹底してハードウェアである。けれども、自分を見つめている。解剖学は、早くから学問としての独自性を持っていたので、自分と向き合う方法の一つとしては捉えられなかったのだろう。もちろん、「自分」の見方も今とは違って、魂があるのが当然だったのも関係しているだろう。精神と肉体が分離できないものだという事実が飲み込めてきている現在なら、解剖学的視点というものが自己を見つめるための手段の一つに加わってもおかしくないと思う。
ちなみに、芸術表現において、感覚的世界を実世界の物理的制約を免れて表現できる平面芸術(絵画、映像)は、精神的アプローチととても親和性が高い「ソフトウェア的」であるのに対して、実世界の物理的制約の中で成り立たせようとする彫刻はずっと「ハードウェア的」である。解剖学と彫刻の近しい点である。
0 件のコメント:
コメントを投稿