言語は人類を特徴付ける能力のひとつと言える。言語により森羅万象は概念化され、事象のインタラクションを正確に行えるようになった。言語化は即ち、内外世界の標本化(デジタル化)なのだ。その戦略によって人類は、地球上での現在の地位を得た。武器や火の使用など物質的道具の使用が人類たらしめる要因として良く上げられるが、それらが真の力を発揮するのは個から個への伝達が可能になってからであることを思い返せば、その最たるものは言語の使用を置いて他にない。人類の歴史において、人々の上位に立った者たちは、皆言葉を巧みに操ったのだろう。言語による恩恵を「身をもって」知っている私たちは、今でも言葉巧みな者ほど「偉い」、「立派」と盲目的に思いがちである。
芸術が本質的には、言語を必要としていないのは明確だ。そこからも芸術の起源が古いことが分かる。芸術が表現するものは、従って言語によって明確に定義分けできるような細かな具体性を帯びたものではなく、もっと始原的な感情に寄り添ったものになる。喜びや悲しみや怒り、恐怖や愛などだ。これらは、民族を超えて人類という動物に共通の感情である。極東の文化も全く違う日本人が、西洋のキリスト教美術に感動できるのは、そういう始原的感覚に訴えかけているからだろう。細かな物語の背景は、正直どうでもよいのだ。
彫刻などは、そういった感情として分類できるものより、さらに起源的な感情にさえ訴えかけるものがあるのだと思う。それは、「物の存在」に対する感覚である。人類は道具を使うことで他に秀でた。初めのそれは石や木の棒や骨の棒などだったろう。それら「物」を握りしめることで、今までは倒せなかったり捕れなかった獲物を得ることが可能になり、競合する他の集団を制圧することが可能になった。手元の「物」はそうして、単なる「物」以上の意味を持ち始めたのだ。
手にすることが出来ないよう巨大な物に対する畏敬の念は、現在でも山岳信奉など様々な形で残っている。
こうして育まれた物に対する愛着的感覚に、様々な感情表現が結びついて彫刻表現が確立されてきたのだと思う。彫刻は単に絵画を立体にしてみたというような物ではなく、起源的にも、訴えかける内容としても、絵画とは大きく違うものである。
しかし、最近では、彫刻の持つ本来の要素、即ち量感や存在感からの脱却を計っているような表現も増えている。これは、加工技術の高度化とも切り離せないが、それよりも、作家がそれらを「古い」と考え始めているからなのかもしれない。だが、それは彫刻による彫刻の否定になり、本質的に意味がないようにも思う。絵に奥行きが欲しいからと、キャンバスを”物理的に”立体的にするようなナンセンスさがそこにはある。
芸術表現には時代性がある。それは移ろいやすい文化に引っ張られているのだから当然である。しかし、私たちの感情や感覚はそうではない。肉体的構造はクロマニヨン人から変化していない。それは、現代の私たちも彼らの始原的感情は理解出来るであろうことを意味している。
今の文化に受ける表現を「今、間違いなく」伝えようとすると、それは必然的に言語化されるようになる。現代美術の多くが言語化が可能、もしくは言語化しなければ理解不能なのはそのような理由がある。抽象芸術はそうして、言語化へと進まざるを得ない。それは、本来の芸術からの離脱であり、行き着く先は「言葉」である。そして、美術の目立つ流れはそちらを向いている。
言語により現在の地位を得た私たちが、言語化(即ち、抽象化、標本化)を好み、言葉に安心し、それを求めるのを否定することは出来ない。だが、私たちの行動規範は、言葉の奥に潜んで見えない始原的感覚から起こっているのもまた、隠しようのない事実である。
言葉は新しい。だから、嘘がつける。悲しくても、「うれしい」と言えてしまう。だが、悲しい感情をごまかすことは決して出来ない。感情表現は各国語が存在するが、感情そのものは人類共通である。
芸術が本来、表してきたのは、この感情のほうだ。それは人類が人類である限りは”文化、時代を超えて”引き継がれてゆくものである。
言葉で言えるものならば、言葉で言えば良い。
言い表せないものに、芸術が必要なのだ。
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