2016年1月10日日曜日

鳥、絵画的生物 -日本美術解剖学会の発表を聞いて-

 日本美術解剖学会の午前の部を聞いて、いろいろと知的刺激を受けた。以下の文章はその発表を聞きながら個人的に考えたことの記録で、発表内容とは直接的な関係はない。

 ひとつめは「鳥の美術解剖学」について。

 鳥はその生体の様と骨格とがなかなか頭の中でひとつに繋がらない。別の言い方をすれば、その骨格が、生きている外見とあまりにもかけ離れている。それは、鳥は皮膚の上にさらに羽毛の厚い層をまとっているからだ。そして、その羽は体型の凹凸をひとまとまりにまとめ上げ、大きな曲線でできたシンプルな形状にする。さらに、その羽に様々な色彩を載せている。色彩は立体感を消す作用がある。そのうえ鳥の多くは体が小さいので、視覚的に重量感やボリュームといった感覚を与えない。それはつまり、内側の構造をはっきりと抵抗を感じさせる皮膚に浮き立たせる人体などの動物が持つ彫刻的存在感というよりも、構造や重量感ではなくあくまでも表面的な色彩で存在を示す絵画的存在感である。それが鳥の骨格図になるととたんに構造や硬さの印象だけが目に入る。それはとても彫刻的で、そこに絵画的な生体とのギャップを感じるのだ。

 解剖学的な構造の知識が人体モチーフの芸術に応用されてきたのは、私たちの裸体はとても骨っぽいからである。裸を見ると、姿勢の頂点になる部分には都合良く骨が皮下に突き出ている。筋はその骨と骨との間にあり、柔らかな起伏をそこに与える。全体を包み込む皮膚に長い毛はなく、視覚的にも触覚的にも抵抗を感じさせるものである。
 美術解剖学の「ゴール」は裸体である。しかし、私たちの日常において裸は常に晒されるものではなく、公共的な人間というのは着衣が基本である。そうであるにも関わらず、美術において基本的に学ぶべきものが裸体”まで”というのは、実は奇妙なことだ。ルネサンス以降、人体表現は裸体が究極的なひとつの答えになった。それはもちろん、古代ギリシアが典型としてあるからだ。私たちは体から着脱可能なものは純粋な自己身体とは見なさない。裸こそが、人類存在の真実を示すというわけだ。
 しかしながら、ルネサンス期は衣服のシワの研究もされていた。当時の主要なモチーフである宗教画は裸ではないからだ。着衣の表現でも、衣服のシワがその内側の肉体の存在をしっかりと伝えるように姿勢が作られていた。衣服は肉体の従属物としてそこあった。

 筋骨格の構造を包む皮膚をさらす裸身。それをさらに覆い隠す衣服。この時の衣服は、鳥における羽毛と一見似ている。カラフルでふわふわな羽毛を取り除けば、鳥も細く筋張った皮膚に覆われた裸身を晒す。
 しかし、鳥の羽毛は人の衣服とは違って従属物ではない。それはあくまでも身体の一部であって、彼らの生態様式と密接に関係しているひとつの器官なのだ。そう考えてくると、鳥の骨格というのは人間の骨格よりもさらに一段階深いところにあるとも言えよう。
 だから、鳥の骨格を生体とリンクさせるには、人間よりもさらにひとつ連結要素が多く必要になるのではないか。そのことが、鳥の骨格と生体の印象が繋がりにくいことの要因なのだろう。

 骨格の知識は、鳥の美術解剖学でも大切だ。鳥の場合はそれに加えて、やはり羽毛の情報が欠かせないものだろう。私たちが鳥を見るとき、クチバシや脚を除けば、ほとんどその体型を決定づけているのは羽毛である。そこには翼も含まれる。色彩を取り除かれたそれらが鳥の隠されていた形状を示すだろう。羽毛はそれが生えている場所の動きを外見に連動させる。そう考えると、鳥の美術解剖学として人間のそれと決定的に違う点は羽毛の情報である。

 そんなことを、発表を聞きながら考えていて、その根底にある、「鳥は絵画的生物」であることも個人的に興味深い気付きであった。

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