2009年4月2日木曜日

意識という錯覚


最近、錯視がテレビや本などで取り上げられている。錯視画像は昔からあるから目新しいわけではなかろうが、昨今の脳科学ブームと何か関連があるのだろうか。昔なら、不思議だね、面白いねで終わっていたことが今は科学的な側面から分析ができることもあるだろう。

人間は、外部からの情報の多くを視覚に頼っていると言われる。それゆえ、見間違いも多く、その経験から錯視画像が生まれてきたのだろう。しかし、当然ながら人間の感覚は視覚だけではない。生きている間は、常に感覚は起きており、言い換えるなら、その情報があることが「生きている」ということである。つまり、錯視が視覚のトリックであるなら、同様に他の感覚もトリックがあるだろうということだ。

ここでもう一度確認しておくが、錯視は視覚の「間違い」ではない。錯視を起こすメカニズムがあるからこそ、私たちは普段、視覚的間違いを起こさずに生活が出来ている。つまり、日常的な視覚風景には多くの錯視現象が起きているのだが、私たちはそれに気付くことがないのだ。むしろ、気付くことが「出来ない」のである。しかし、時には、右を立てれば左が立たぬ状況が視覚にもあるわけで、その時に我々は「それ」に気付くのに過ぎない。

話がそれるが、自然界には擬態という驚くべき護身方がむしろ一般的に用いられている。人間はそれらの動物を見て驚くわけだが、同時にそれは、その動物にしてみれば人間に気付かれてしまっているわけで、擬態の意を成していないとも見える。だが、その動物が生活している状況を観察すると、彼らを襲う主な捕食者にとっては最も効率的な擬態をしていることが見えてくる。興味半分で近づく人間には気付かれても仕方ないが、本当の敵には全く気付かれない。擬態が成功している間は、その捕食者には意識できない”存在しない”物となる。

同様のわざを使って、人間の視覚から逃れている生物があるかどうか分からないが、重要なのは、「意識出来なければ、無いも等しい」ということだ。擬態している昆虫に気付かない鳥にはその虫は無いのと同じだが、私たちの意識の場合は少し違う。意識が気付かないだけで、無意識は気付いていることがある。私たちは普段、意識していることしか意識しないから、自分のことは全て意識出来ると考えているが、実はそうではないことが最近明確になってきている。むしろ、無意識が基本であり、意識はその舵取りに手を貸す程度しか関与していないのではないか。

何らかの原因で、脳に障害を負った人が様々な驚くべき症状を見せ、そこから隠されていた脳の働きが導かれることがある。病態失認というものがあるが、これは、半身麻痺のような重度の障害が現れているにも関わらず、当人がそれを認めないというもので、ではこの動かない腕は何かと問い詰めると、仕舞いにはそれは隣の患者の腕だと言い除けたという。

これは、半身が動かないことを知っていて、それを認めたくないという”意識”から出た行動ではないという。この患者は、脳に障害を負ったことで病態失認が「生まれた」のだろうか。そうでは無いと思う。むしろ、もともと持っている性質がそれを覆っていたものが取り除かれたことで強調されて見えてきたものではなかろうか。他にも、脳の傷害から見えてくる様々な興味深い症例が、普段気付くことができない脳の機能を「意識」させる。

私たちは、意識という能力を持ち、自分たちの意志で行動し、それによって他の生物より秀で、地球上で優位で特殊な生命体だと自負する。本当にそうなのだろうか。錯視は、統合された視覚の文脈から外されて始めて認知できる。脳の機能も統合が破綻することで、ある機能に気付くことが出来る。私たちの意識とは何なのかは、私たちの意識の内で捉えようとする限り、理解できないのではないか。

感動すべき芸術を分析して理解しようとすると、本質的な感動から遠ざかり、芸術を殺してしまうように、意識を分析しようとすると、そこから見えるのは分解された個々の現象になり、意識から遠ざかる。意識とは、脳の機能の統合現象であって、それがあると感じるのは錯覚のようなものではないだろうか。

0 件のコメント: