19世紀、ロダンによる彫刻の革命。それは、彫塑、モデリングの勝利だった。
モデリングとカービングの技法の間にある、本質的な違いは何か。それは、作り直しが利くか否か、だ。
彫刻を始める多くの人は、彫塑が持つ、作り直しが利くという特性を、カービングに対する優位性としてみる向きがある。
しかし、どうにでもなる、という無限性を持った自由は、留まるところを自分で決定できない初心者にとっては実は大きなハンディとなる。
カービングは、削り取るという作業が、その痕として、そのまま表面に残り、作品の表面となる。作業性がそのまま作品となる。
モデリングは、付け加えてゆくという行為ゆえ、その表面もどうするのかを意識的に制御することになる。また、モデリングは最終的には鋳造される事が多く、その際には、オリジナルから数回の素材の移し替えという行程を経ることになり、その度に、オリジナルが持つ表面性は変化してゆく。
彫刻における、モデリングは、その特性から、おもに石彫のためのマケットや、ブロンズ鋳造のための原型として用いられた。
マケットは、基本的に残されない。原型は、粘度から置き換えられた素材の表面を研磨したり、ブロンズ鋳造後に表面を研磨して仕上げられので、原型の持っていた表面性(テクスチュア)は失われる。
つまり、モデリングでは、制作段階での表面性は重要ではなかった。それは削り落とされる運命にあるものだった。
ロダンは、それをそのままにした。荒く付けた粘土はそのまま石膏に置き換えられ、そのままブロンズに鋳造された。彼は、それによって、彫刻は表面性は第一義的に重要ではないということを表した。作業性がそのまま表面となるというカービングの概念をモデリングに割り当てたのだ。
この成功により、モデリングは、表面を研磨して仕上げるという呪縛から解放され、同時に表面性によるごまかしという覆いを奪われた。
つまり、石彫が自ずから持っていた、彫刻的本質に近づく事に成功したのだ。
ロダンの仕事の、彫刻における本当の功績はここにある。ロダンは、形をあやつる名手だった。けっして、単なるロマンティストだったのではない。
ロダン芸術が、日本に入ってきて、たかだか100年である。日本の近代彫刻は、佐藤忠良など、自分の脚で立つ本当の彫刻を生み出したが、ほとんどは形骸に終わってきたのが実情だろう。
日本には、西洋的な立体の捉え方はそもそも存在しなかった。日本人は常に表面性で対象を見てきた。それは、仏像、能面、日本画から浮世絵を見れば分かる。それが、私たちが元来持っている能力なのだ。それが、100年前にロダンによってかき回された。しかし、それを排除しようとするのでなく、取り入れようとした。しかし、対象をどう見るのか、という根本的な部分に深く目を向ける事をしなかったのではないだろうか。日本におけるロダンは間もなく、ロダニズムというスタイルと見なされ、形骸化していった。ロダン的な表面性だけを追うことになってしまった。それは、日本的見方へのリバウンド現象である。
今、日本では、ロダンが、そしてその後ろに見える西洋的な対象の見方による、「形を動かす」彫刻は、限りなく影を潜めてしまった。
現代美術における彫刻は、もはや、完全なまでに従来の日本的な対象の見方、すなわち、表面性を追うというものに”戻った”。
ロダンによる、ルネサンス以来の彫刻革命は、今では、単なる美術ムーヴメントだったとさえ言われるようになった。
はたして、そうだったのだろうか。そえは、一時の熱病のようなものに過ぎなかったのだろうか。
彫刻は、物質を取り扱う。人を表そうとするなら、人の形を作らなければならない。その現実性が、いま、少しずつ遠ざかっているように感じる。
私たちの脳は、原則的に情報のみを取り扱うが、今やそれが優位となり、作り出される物まで、情報性のみが取り出されるようになった。そうしてコンセプチュアルアートが台頭し、かつて彫刻と呼ばれてた領域も、物質を取り扱うというものよりも、作家の概念を立体で表すものとなりつつあるようだ。それは、表面性にこだわるという表現方法によって一層際立っている。
ロダンが、その作品で指し示した、彫刻とは何たるかという教示。それは、ロダンが一人で作り出したものではない。芸術の歴史で人類が気づかずに追っていたもの、それを彼の言語で書き表したものだ。それは、私たちの人類の歴史の記憶に刻まれた感覚である。
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