2009年4月9日木曜日

存在への疑念

存在。自分がここにあるということに対して、思春期も過ぎると一度は疑念を抱く事があるかと思う。

自分とは何なのか。そこから始まり、結局確信めいた回答を得る事は出来ずに、人生は終わりを遂げるのだろう。

哲学でも、物理学でも、物の存在は大きなテーマである。いわんや芸術をや。


前世紀末から今世紀にかけて、私たちの意識に対して、哲学という主観的アプローチだけではなく、脳神経科学という客観的アプローチが急速に領域を広げている。とはいえ、その解明のトンネルの出口はまだ遠いわけだが、意識というものが私たちが考える以上に「足場が脆弱」であることが分かってきているようだ。

私たちは、自分に体する主観を捨てる事は出来ない。それは、自己を超え、人類という種を存続させるためのアイデンティティを支える重要な本能とでもいえるものだ。それが、私たちが「意識を持っている」という強烈な主観を生み出している。

死は、私たちにとってこの上なく恐ろしい出来事だ。なぜ、そうなのか。死んでも、物質としての肉体がすぐに消滅するわけではない。そこで失われたものは何だろう。それは、命、言い換えれば、精神、それを認識していた意識である。


死、それは”意識”が知りたくない、私たちの存在の真実を照らしているのではないだろうか。だから、そこに恐怖を引き起こすのではないか。”意識”など、そもそも存在しない。存在していたのは肉体という物質だけであると。

私たちの存在は、冬に降りる霜、紙にコーヒーがしみ込んでいくさまと、なんら違いのない物理現象だ。死して意識の抜け落ちた体は、それを全身で表している。そして、それは、生きている私に間断なく繋がっている。

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