2009年10月11日日曜日

知識だけで作品はできない

美術解剖学を十分に自分のものとしたとしても、それだけで芸術作品が作れるようになるわけではない。

ある人間(モデル)が空間上に存在するということは、それを観察する者(作家)によって客観的に明らかにされる。観察者にとっての、その人間の存在は、取り囲む空間、環境から切り離されることは出来ない。なぜなら、観察者がその人間を見るには光が必要であり、その光はその人間を取り巻いている空間が提供しているのだから。
目は光を捉える器官だという事実は、統合された視覚という感覚の精度の高さ故か、忘れてしまいがちだ。私たちが見ているのは、物体に跳ね返った光線である。光線は目に入るまでに何度も反射を繰り返して複雑に入り交じった色になる。空気中のチリや湿気さえ影響を与える。
視覚において、物理的な作用だけでも無数の要素が絡んでいるうえに、知覚として認識するときには、観察者の主観的要素も関係してくるのだから、10人が見れば10通りの見え方があるということになるだろう。

美術解剖学では、骨と筋の位置は知ることが出来るが、実際に人体が様々な姿勢をとったときに柔らかい筋が緊張したり圧迫されて変形する様までは、全て網羅できるものではない。そして、実際の人間は常に姿勢を変えているのだから、必ずどこかにそういった変形が見られる。

このような、幾つかの具体的な理由から、説得力があり実在感のある作品が生み出されるには、実際のモデルの観察が必要であると言える。美術解剖学の知識は、その補助には絶大的な効力を発揮するが、そのもの自身が造形の主軸にはなり得ない。
リアリティー(現実感)を持つものは、リアル(現実)のものだけで、自分の造形力をも越えるそれを求めるならば、実際の観察をあくまでも主軸として、そこに知的補助として解剖学を置くことが、効率的で正しい方法だろう。

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