2009年10月5日月曜日

自分という驚異

解剖学は、人体の構造を視覚的に明らかにしてきた。それは、「生きている」という現象の緻密さが故にもたらす神秘という謎のベールを次々と取り払うような歴史である。私たちは、超自然的な力や神霊という外部的なものによって動かされているのではなく、それぞれの個体がそれ自身で運動し行動を決定していることが明らかとなった。

生きている現象は、一つ一つ細かく分解して見るなら私たちが普段目にする当たり前の自然現象と何ら変わりがない。コップからこぼれた水がしたたり落ちるのが神秘でないように、それらも神秘ではないのだ。
しかし、それらが驚くに値しないと分かるほどに、その組み合わせによって生命現象が生み出されていることが驚異と感じるようになる。私たちは、経験上、複雑な構造物ほど安定を図ることが難しいということを知っている。それなのに、この複雑極まりない人体という生命体は、よほどの事がない限り当たり前に動き、それどころか常に自己の修復を計り、恒常性を保っている。

私たちは、自由に動き回れ、飛びはね、転んだくらいでは何ともないように起き上がるが、解剖学によって指し示される一つ一つの構造が自分の中にあり、その組み合わせで動いているのだと思い返すとき、何でもなく日々を過ごしているその事にすら驚異を感じざるを得ない。つまり、もはや自分自身が驚異の主体となるのだ。

人体の内部構造が明らかになっても、「生きる」という驚異は相も変わらずそこに鎮座し続けている。

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