2009年10月10日土曜日

いのちの所在

社会的には、人間一人一人を「個人」と分類する。動物や植物なども「個体」と呼んで一つ一つを分ける。
「わたし」は明らかに単独の、一人の人間生命体だと認識している。それは、人間社会においては当然の共通認識であり、それを疑うことは精神を病んでいるのかとさえ言われかねない。
しかし、一方で生物学的に見れば「わたし」は無数の細胞の集合体であり、その個々の細胞ひとつひとつが生命活動を営んでいるのである。そう思うと、「わたし」は人間として数えるなら一人だが、単一の生命体ではないということも言える。「わたし」は、数兆の命の集合体なのだ。
そう考えるなら、個人の死も1つではない。ある人の呼吸が今止まり、医学的に死が定義されたとしても、その瞬間に、体中の細胞が一斉に死ぬわけではない。それを恒常的に維持するための仕組みが不可逆的に失われた状態を個人の死と定義しているのだ。個人の死と共に細胞全てが死なないからこそ、角膜や臓器移植が可能なのだ。

死後、髭が伸びるかというネット上の質問に対して、ほとんどの回答が「皮膚が収縮するため相対的に伸びて見えるだけ」とある。個人の死後に細胞が活動することはないというこのスタンスは、「命は個人にひとつ」であるという暗黙的な認識が導くものだろう。

いのちの所在。これはまた様々な見方ができるのだろうが、もし「わたし」個人に命がひとつと限られていたら、種の継続はどのように説明するのだろう。
私たちは、父と母から離れた細胞から出来てきたことを思い返す。そして、やがて「わたし」個人が死んでも、そこから分かれた細胞から出来た子供は生きており、種をつないでゆく。

「わたし」の命は、生命が地球上に誕生した約40億年前から一度も途切れたことがない。

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