2016年1月28日木曜日

今について

 1秒、また1秒と時は流れていく。いま、この瞬間を意識したとたん、それは既に過去と成っている。つまり、認識している世界は全て過去である。過去とは何か。私たちが主観的に認識する過去とはつまりは記憶のことである。
 ケータイにはカメラが付いている。いまではそれが当たり前だ。多くの人が今を記録したいと思っている。そこには過ぎ去ってしまった過去が記録されていると感じるからだ。このブログのように、考えたことを文字で記録することも人は好む。しかし実際は、それらは私たちの脳内に刻まれた記憶をよみがえらせるきっかけである。主観的な「思い出」は現実味があって、絵画を見るような空々しさはそこにはない。それは、その時に感じていた「今」が実はすでに少し前の「思い出」であったことの証しでもある。私たちはだれも本当の「今」を知ることはない。私たちが今この瞬間感じていることは既に脳内では「出来たての思い出」なのだ。現象は全て、流れ落ちる水に手をくべているようなもので、決してその瞬間を手の中に留めておくことはできない。
 これからやってくるであろう未来について、私たちは予測する。例えば、週末に出掛ける予定があれば、その事を楽しみに待つだろう。ところが、週末がやってきて出掛けて楽しんでいるその経験の全ては「少し前の思い出」である。そして帰宅すればもうそれは「思い出」となっている。
 楽しみに待っていたその瞬間はどこにあったのだろうか。まるで、新幹線の窓からそとを眺めているようだ。進行方向を見ると景色が自分に近づいてくる。それは自分の横を過ぎ去るときに最も早くなり、あっという間に後の景色として流れ去っていくのだ。景色として眺められるのは前景と後景だけである。

 未来、今、過去といった時間概念も、私たちは進化のなかで身につけた概念である。私たち動物は、行動を起こすために、「その前」の予測が重要である。そして、予測を可能にするには記憶が前提となる。行動の記憶を元に予測することで、新しい行動は無駄が無く危険の回避にも繋がる。このように、周囲環境の予測と、予測通りであったか否かという確認の連続が個体運動を支えてきたのであろう。そこに「今」は必要ない。
 
 しかし、時の流れには未来と過去の間に「今」がある。私たちの身体においてそれはどう感じ取られているのだろうか。それを担っているのが、身体各所にある感覚器官による刺激受容とそれに伴う反射行動ということになる。主に外世界の受容で見れば、皮膚には体性感覚にまとめられる各種感覚受容器が存在している。つまり、触覚、温冷覚、痛覚などの皮膚感覚である。また、頭部には目鼻口耳で捉えられる特殊感覚があり、世界を真っ直ぐに見て聞いて嗅いで味わっている。いま皮膚に何かが触れて、「何だろ」と思った時には、それは既に過去である。しかし、皮膚の感覚器は物が触れた瞬間にパルスを発し、それは直ぐ近くの脊髄内で運動ニューロンに伝達され筋の収縮命令が即座に出されている。この反射と呼ばれる過程は、運動様式のもっとも古い単純なもので、「触れている物がなんなのか」など全く考慮していない。「今その瞬間」にはそれが何なのかという判断がないのだ。私たちが知っている世界の記憶は、そういった感覚受容器から届けられた「今その瞬間」のパーツを組み合わせることで作られる。そうやって都合良く組み立てられた世界が「少し前の思い出」なのだ。
 
 私たちが漠然と「今」と信じている「少し前の思い出」は、感覚器たちが捉えた”前後不覚”な情報を元に組み立てられた世界だ。その世界はだから、生の、そのままの外世界ではあり得ない。そこには、期待や失望、喜びや悲しみ、過去の記憶などから自在に脚色が加えられるのである。だからこそ、悲しみによって世界は本当に色を失うし、希望によって本当に色付くのである。

2016年1月26日火曜日

メメント・モリ

 いま、生きている人は皆いずれ死ぬ。この死は、生きている人にとっては誰もまだ体験していないことだが必ず”そうなる”と既に決定している。つまり、私たちは決められた未来の下に生きているのである。

 さて、私たちは細胞の群体として存在している。意識を生み出している神経系も個々の細胞の集まりからできている。意識とはそういった無数の群体間の情報のやりとりに生まれた現象だとするなら、群体を構成している個々の細胞にまで分けてしまえばそこには意識はもはや見いだせないだろう。私たちの意識はあくまでも私たちのサイズでの事象である。私たちは死に意識的だが、それははじめからそうであったのではない。ただ、個体が死ぬという状態からは逃避するという行動様式は古くから身についていた。これは死を恐れていたからではない。個体の生命現象が停止しないような振る舞いを身につけたものだけが残ったのだ。死とそれに直結する身の危険からの忌避感覚はその後に後付けされたものだろう。それは自らが身につけた偶然的行為を肯定させる。だから、死が全ての生命体にとって忌避すべき現象では決してない。死すべき現象を取っている生命があればそのものは、私たちが明日も生きるのが当然と信じるかの如く至極当然に、自ら死んでいくのである。そのような生命は、私たちの体を構成している細胞達によく見られる。私という個体を維持するために自ら死んでいく細胞達が無数にいる。

 私たち個人の死というのは、個人を構成している細胞達によるシステムの不可逆的な崩壊であるとも言える。リカバリーの効く部分的な崩壊であれば、個人の死は免れる。それがある閾値を超えるともはや立ち戻れず、なし崩しに秩序が崩壊していくのだ。だから、個人の死と言ってしまうと1つの命がぷつんと消えるようだが、実際は無数の細胞の命がバタバタとドミノ倒しの様に消えていくようなものだ。つまり、1人の死には「死にはじめ」から「死に終わり」までタイムラグがある。ただ私たちは、自分や誰かを継続的な意識的反応に見ているので、それが消えるとその人が死んだと捉える。今は意識が消えても機械で身体の生命を維持できるので脳死という現象、言葉が生まれた。意識はシステムに生まれる現象であるから、脳死であっても、機械で栄養が送られていれば、身体を構成している細胞のひとつひとつは何の不満もなく生命現象を継続する。しかし、それでもいつかは個人の全細胞が死ぬときが来る。
 個体の死は、システムに組み込まれたものだという。つまり、私たちは個体が死ぬことを織り込み済みで進化してきたのだ。個体の死は生命体における失策ではない。むしろ死なないことは失敗だった。多様な生命の多くが個体死を組み込んで進化していることからもそれは分かる。外部環境の多様な変化と同調するには、適当なサイクルで個体が死んで行くことが重要なのである。もちろんそれは次世代を作ってからのことだが。つまり私たち個人の死は、人類という種の継続のために役立っているのである。種の継続と個体の死は表裏一体の現象なのだ。

 さて、先に私たちの体を構成している自ら死んでいく細胞たちは疑うことも抗うこともせずに死んでいくと書いた。私たち個人も巨視的に見れば、種存続のために組み込まれた死を受け入れ死んでいく。しかし、私たちは死を恐れ免れたいと欲求するのである。ここに身体と精神の二律背反が起こっている。なぜこのようなことが起こったのか。決して個体死から逃れられないのにも関わらず、なぜ抗い続けようとするのか。抗おうとしているのは意識である。では、その意識が生命システムにおいて立ち現れた理由、原因は何であろう。意識は自らの生命現象を確認し定義づける働きを見せる。いったいそれは何の必要があるのか。もし私たちが単独で生きていたらそれは必要だろうか。確認し、定義付けるメリットは、それを他者に伝えることが出来るということではないか。同種の他者と意思行動を共有するには他者の行動を「観察」し、自己と「比較」することが必要である。観察や比較といった客観的視点は、そのまま自分へと向く。そこには他者から自己へのフィードバックもあるだろう。やがて私たちは自分自身をも他者のように観察し比較することが可能になる。そうして自己客観視は意思として私たちの内側に居座るようになるのだ。よく考えてみれば「私」とはどこにいるのだろうか。自分存在を「私」として切り離せるのは、自己を他者として投影しているからであろう。これは「精神」や「魂」など様々なかたちを取るが、常に肉体的身体と別体であろうとするのも、それが故であろう。

 自分の死を体験した人はいないという事実を思い起こそう。私たちの知る死は全て他者のそれである。死とは客観的事象なのだ。観察される死はいつも悲しみや苦しみなどネガティブな感情を伴っている。それはもちろん、そう感じるように出来ているからで、同種他者の死は種の個体数減少と直結しているのであるから深刻な事態である。そして、他者を失う喪失感はそのまま自分の死として客観されるのである。他者の死が喪失を伴う哀しいものであるなら自己の死もそういうことになるのだ。こうして、客観的に観察された死は自己にも訪れる忌避すべきものとして植え付けられ、私たちは最後の瞬間までそれから逃れようとする。

 社会性動物ゆえに意識を持ち、意識的ゆえに死を恐れる。しかし、死を恐れるという意識も、人類の社会性のうえに返されることで人類に恩恵を与えることになった。それが医学である。意識的であるということは、本質的には自己も他者もないのであるから、私たちは他人の苦しみを自分のものとして捉えることができる。他人の苦しみを取り除き死から遠ざけることは自らの死を遠ざけることに等しいのである。
 しかし、医学がすることは病や怪我などのように”部分的な崩壊”のリカバリーに過ぎない。医学も個体死を消すことは出来ない。

 意識を持つことで死を知ってしまった。だが、それは同時に生を知ることでもあった。抗えども逃げられぬ死。しかしそれを恐れているということは、まだ生きているということの客観的証明でもある。身体的危機を免れると生きていることを実感する。なんとも皮肉だが仕方がない。

2016年1月16日土曜日

アンパンマンの頭と体

 アンパンマンについて、ふと考えたこと。

 アンパンマンは、アンパンで出来ている自分の頭を腹を空かせた者に分け与える。また、頭部が水に濡れてふやけると力が弱くなってしまう。このように頭部を損傷しても、新しい頭と取り替えることで元に戻る。新しい頭は、ジャムおじさんが焼いている。頭と取り替える時は、新しい頭部が飛んできて、まるでビリヤードの球がぶつかるように古い頭をはじき飛ばして胴体と結合する。古い頭はどうなってしまうのだろう。固まった笑顔のまま地面に転がるのだろうか。頭部と胴体が切り離されるという表現は衝撃的である。
 また、頭部と胴体が分かれるのであれば、胴体は何なのかも気になる。「アンパンマン」という呼称に適うのは彼の頭部だけで、胴体は特にアンパンではないように見える。頭はジャムおじさんが作っているが胴体はどこから来たのだろう。まあ、胴体もジャムおじさんが作ったのだろう。パンではない何かで。そう考えるのが妥当だ。

 上記の様に、アンパンマンは頭部と胴体とが完全一体ではない。それは私たちの体の構造と大きく異なる。異なるけれども、平常時はあたかも一体のように振る舞っている。
 私たちの体の頭部と胴体とは、その間の頸(くび)で繋がっている。頸は「くびれている」ので頭と胴体とを結びつける部位として見られるけれども、それを発生的もしくは構造的に見れば、あくまで二次的にくびれただけで、本質的には胴体と一体であることが分かる。頚は脊椎動物が上陸した後にできたと考えられている。だから頸を持つ魚はいない。
 しかし、アンパンマンは違う。彼の頸は単なるくびれではなく頭と胴体との連結部として機能しているのだ。頭部と胴体とは必要に応じて接続されたり切り離されたりする。そして、頭と胴体とが連結されているときは両者が一体として振る舞う。つまり、1人のアンパンマンとして。その時の胴体は明らかに頭部の意思決定に従っているように見える。つまり、ばいきんまんの悪さを見聞きし、それに怒ってアンパンチを繰り出すという一連の判断は頭部のアンパンが行い、その判断を実行に移すのが胴体である。必殺技のアンパンチは胴体の運動に依っている。つまり、アンパンによる外部判断と意思決定が胴体へと伝わって運動を引き起こしている。その様は、私たちの機能と似通っている。
 ただし、私たちは意識的な運動の高次コントロールは頭部の大脳皮質にあるが、アンパンマンのそれが頭部にあるのかというと、それは消極的だ。頻繁に損傷し取り替えられる頭部は、純粋な感覚器と効果器としての顔面を持っているだけかもしれない。

 彼がアンパンマンと呼ばれるのは頭部がアンパンだからだ。その意味で、頭部の重要性は大きい。しかし、1人のアンパン”マン”として完成するには胴体が不可欠であることも、また事実である。ジャムおじさんの工房で焼かれたアンパンマンの頭部だけの状態では表情に動きがない。それはまさしく単なるアンパンだ。アンパンマンの頭部は胴体と結合することでアンパンマンとしての意思を発現させるのである。

 食べられても、ふやけても、何度も交換することができる頭部。別物の頭になっても以前と同じアンパンマンを自認するが、胴体と結合するまではただのアンパン・・。こうしてみると、動くアンパンマンとしての主体が実はあの頭部ではなく、胴体であることが分かってくる。そう思えば、アンパンマンは自分の胴体の一部を他者に与えることもしないし、胴体を交換することもない。アンパンマンの存在としての唯一性を支えているのは物言わぬ胴体なのだ。そう思えば、彼が空を飛び、弱者を助け、悪者とたたかっているのも全て胴体である。

 上記したように、アンパンマンは自分を「アンパンマンだ」と自認しているが、その自己決定を発声運動として表出させるのには胴体が必要なようだ(結合前の頭部は動かない)。だから、連結前のアンパンが、自らをアンパンマン(もしくはアンパン)だと自認しているのかどうかは知りようがない。しかし、胴体は交換アンパンが結合した後にどうして自らがアンパンマンだと分かるのだろう。その答えとしてひとつ言えるのは、”アンパンマンだ”と呼びかけられることによる自己認識がある。アンパンの頭をした彼は、ジャムおじさんをはじめ周囲のキャラクターたちから「アンパンマン」と呼ばれることで自らがアンパンマンだと自認するだろう。別の可能性は、彼(の胴体)が、自らをアンパンマンだとする自己同一性を保持しているのかも知れないということだ。新しい頭と取り替えられても、取り替えられる前と同じ自分というそぶりを見ると、後者である可能性が高い。そうであれば、たとえ胴体にカレーパンが結合してしまっても「ぼくはアンパンマン」と言うはずだ。しかし、見た目からカレーパンマンと呼ばれることによって、外見と内面とのギャップ「パン同一性障害」に悩まされるかもしれないけれど。

 さて、このように見てくると、アンパンマンの頭部と胴体との従属関係が当初思われていたそれと違ってきた。即ち、アンパンマンの自己同一性を保持しているのは、実はあの特徴的な頭部ではなく胴体であった。では、アンパンマンにとっての頭部の意義は何かと言うと、それはアンパンであるということにつきるだろう。それは彼にとって何の意味があるのか。それは彼の世界におけるアイデンティティー確立のため、つまり、他者から「あ、アンパンマンだ」と呼ばれるため、ということになる。

 アンパンマンは、誰からもそうと分かるように常に同じ頭部に同じ表情で飛び回っている。しかし、彼の自己同一性を保っているのは、交換可能な頭部ではなく、たったひとつの物言わぬ胴体の方なのだ。

 アンパンマンについては、顔がそっくりなジャムおじさんとの関係性についてや、アンパンマンが”いい人過ぎて人間味に欠ける”理由についてや、アンパンマン世界と彫刻との関連など、色々と考えることがある。それらは、いずれまた。

2016年1月11日月曜日

顎(あご)の形

 ふと、人の下顎の形が気になった。人にはいわゆる「顎のエラ」があるが、そもそもなぜあるのか。

 だいぶ前、肉食恐竜と草食恐竜とは顎関節の位置に違いがあるというのを読んだ。簡単に言えば、肉食恐竜のそれは歯列に対して上側にあって、草食恐竜は下側にある。それが歯にかかる力の伝わり方に影響していると。確かに顎関節の位置は対照的で、その時にそれに気付いたから覚えているのだが、力の伝わり方まではいまいち分からなかった。
 恐竜でも人間でも力学は同じだから、何かヒントがあるだろうと自分なりに考えた。歯列に対する顎関節の上下は、ただそれだけなら両者で変わりはない。上下をひっくり返せば同じだから。ネットで探すと、肉食恐竜の歯列は顎関節から直線的でハサミの様で、草食は角がある(いわゆるエラ)のでくるみ割りのように歯が当たるとあった。これは分かりやすい。側面図でいろいろ考えると、顎関節と前歯前端と奥歯後端の3点をむすぶ三角形を描くとよい。すると、奥歯後端の点が下に下がるほど、前歯前端と奥歯後端を結ぶ線が、顎関節を軸とする回転円周曲線に近づく。回転円周に近いほど、噛みしめたときの圧力は弱く、すりつぶし力が強くなる。つまり、そういう三角を描く顎ほどすりつぶしに向いている草食よりと言える。そう思って、ゾウの頭蓋を見ると、その奥歯の咬合面は見事に円周曲線上に近い。今度はライオンを見ると、歯列はかなり顎関節−前歯前端直線に近い。つまりハサミのように切るのに向く。

 人を見ると、両者の中間型だ。顎関節を上に上げる(もしくは、歯列を下に下げる)ことで、前歯前端−奥歯後端の歯列直線は、顎関節−前歯前端直線を斜めに横切って走る。だから、はさみのようでもあり、すりつぶしにも向いているとも言える。化石人類を見てみると、この斜めの横切りがより深く交わるように見える。つまり、現代人よりもすりつぶし型となる。人類は、草食動物よりの顎から始まったのだろうか。

 肝心の顎エラの直接的な回答とはずれたが、面白い。エラは咬筋付着部だから、その走行角度と歯列線とも何らかの関係があるのだろうな。もちろん側頭骨も。しかし、顎関節と歯列直線の関係性には力学的な理由が必ずあるはずで、それは「何をどう食べるか」が反映しているはずだ。

 長頭、短頭の話も、顔面部の発達と関係があるのではないだろうか。耳を挟んだ前方は内臓頭蓋、後方が神経頭蓋が占めている。前方が重くなれば、後方もバランス取りのために重くしたい。逆も然り。つまり、アゴが軽くなれば、後頭部を”短くしたい”。かといって脳を削ることは出来ないから左右幅を広げる。こうすると短頭が出来上がる。どうかな。

  上記文章は2014年初頭のものと思うが、ブログのカレンダー日付が狂い、先頭へ来たもの。

批判的に見る

 かつて学んだ大学院の教室のサイトの始めの文章に「対象を批判的に見る」という文言がある。それまで、批判的に見るというのがどういうことを意味するのか、あまりぴんときていなかった。修士までの芸術領域ではそういった話など出たこともない。だから、批判的と聞くと、相手や対象を信用しないというネガティブな印象を抱いた。実際、普通社会で批判的という言葉はそういう意味合いで用いられている。
 教室に入ると、毎週、抄読会という海外の医学論文をプレゼンする勉強会があった。担当は教室のメンバーが順番で回ってくる。レジュメを作成し、論文の要旨を発表する。すると、教授はじめ教員たちからその論文内容についていっせいに「つっこみ」が入る。つまりそれが批判なのだが、選んだ論文が悪いと、つっこみさえ入らずに終わってしまうこともあって、それはそれで寂しいものだ。しかし、つっこまれると自分の論文でもないのに自分が責められているようでなぜか悔しい気持ちにもなる。この抄読会の効果はしかし強大で、論文の構成組み立ての理解に役立つだけでなく、「批判的に対象を見る」という姿勢が半ば自然に理解できていったように思う。
 結局、批判的に見るというのは、対象を疑って掛かるという意味なのだが、その行為は決して後ろ向きであってはならず、建設的に前を向いている。つまり、そこに示されているものを批判するには、それを上回る情報をまずこちらが持っていなければならない。この情報とは、何も具体的なものだけを指しているのではない。むしろ具体的な情報はあとで調べれば入手できるので、それはパズルのピースのようなもので、重要なのは、そのパズルの組み立ての全貌や完成品の質への情報である。
 数多くの著書がある教授の文章の構築も、私にとっては教科書のようなものだ。著者とその著書の両方を知れるというのは、誰でも体験できるものではないが、その幸運に恵まれた私の感想としては、文章はその著者の思考体系が現れる、というものである。さらに言えば、著者の性格さえも文章には現れるのだということも実感できた。著書は著者の分身なのだ。

 さて、話をもどすが、対象や文章への批判的な視点はしかし、一般的ではない。インターネット上の文章や、その読者の反応を見ると、その事がよく分かる。私たちは、表されたものをとりあえずは信じるという性質があるのだろう。だからこそ、「批判的に見よ」とわざわざ名言しなければならないのであるし。
 しかし、ネット上の意見や文章が、すべて批判無しに受け入れられるものばかりかというと決してそうではない。発言は基本的に自由であるから、そこには、ありとあらゆるタイプの文章が転がっている。そういう中に、厄介なものもある。例えば「それらしい文章」だ。発言する者の意思としては、当然ながらそれを信用して貰いたい欲求がある。そのために各人が様々な”工夫”を凝らしている。個人的な発言であることが明解な場合(このサイトのように)は、発言者個人が信用に値するかどうかの小さな問題なのだが、それが団体の体をしていると、閲覧者は個人よりもその内容を信用する向きがある(それが団体活動の利点の1つだ)。しかしながら、様々なレベルの団体が存在しているのが事実で、それは「1団体を1個人」として変換しても良いようなものだ。つまり、何が言いたいかというと、団体だろうが個人だろうが、そこに提示されている文章なりの内容からその質を判断しなければいけないだろうということである。多くの文章を目にするようになった私たちには、積極的に自らその質を判断できる必要性が求められているのである。そこに必要な態度が、「批判的」なのだ。

 批判的を簡単に言えば「疑ってかかる」だが、上記したようにやみくもなそれではなく、文章全体の方向性や構築から、その質を客観的に判断しようとするのである。すると、流しで読むと一見客観的視点から書かれているようにも見える文章が、実は狭い視点からの思い込みを説得させようとしているものだったりすることに気付く。誰が書いたか、どこの団体が書いたか、だけで判断するのはあまり良くないようだ。

 また、さらに興味深いのは、上記した文章の問題は、芸術作品という文章ではない対象にも大方あてはまるということである。一見、それらしい作品は数多いけれども、その質が適切に整っているのかどうかは、また別である。

 批判的という視点は対象判断の役に立つ。

2016年1月10日日曜日

鳥、絵画的生物 -日本美術解剖学会の発表を聞いて-

 日本美術解剖学会の午前の部を聞いて、いろいろと知的刺激を受けた。以下の文章はその発表を聞きながら個人的に考えたことの記録で、発表内容とは直接的な関係はない。

 ひとつめは「鳥の美術解剖学」について。

 鳥はその生体の様と骨格とがなかなか頭の中でひとつに繋がらない。別の言い方をすれば、その骨格が、生きている外見とあまりにもかけ離れている。それは、鳥は皮膚の上にさらに羽毛の厚い層をまとっているからだ。そして、その羽は体型の凹凸をひとまとまりにまとめ上げ、大きな曲線でできたシンプルな形状にする。さらに、その羽に様々な色彩を載せている。色彩は立体感を消す作用がある。そのうえ鳥の多くは体が小さいので、視覚的に重量感やボリュームといった感覚を与えない。それはつまり、内側の構造をはっきりと抵抗を感じさせる皮膚に浮き立たせる人体などの動物が持つ彫刻的存在感というよりも、構造や重量感ではなくあくまでも表面的な色彩で存在を示す絵画的存在感である。それが鳥の骨格図になるととたんに構造や硬さの印象だけが目に入る。それはとても彫刻的で、そこに絵画的な生体とのギャップを感じるのだ。

 解剖学的な構造の知識が人体モチーフの芸術に応用されてきたのは、私たちの裸体はとても骨っぽいからである。裸を見ると、姿勢の頂点になる部分には都合良く骨が皮下に突き出ている。筋はその骨と骨との間にあり、柔らかな起伏をそこに与える。全体を包み込む皮膚に長い毛はなく、視覚的にも触覚的にも抵抗を感じさせるものである。
 美術解剖学の「ゴール」は裸体である。しかし、私たちの日常において裸は常に晒されるものではなく、公共的な人間というのは着衣が基本である。そうであるにも関わらず、美術において基本的に学ぶべきものが裸体”まで”というのは、実は奇妙なことだ。ルネサンス以降、人体表現は裸体が究極的なひとつの答えになった。それはもちろん、古代ギリシアが典型としてあるからだ。私たちは体から着脱可能なものは純粋な自己身体とは見なさない。裸こそが、人類存在の真実を示すというわけだ。
 しかしながら、ルネサンス期は衣服のシワの研究もされていた。当時の主要なモチーフである宗教画は裸ではないからだ。着衣の表現でも、衣服のシワがその内側の肉体の存在をしっかりと伝えるように姿勢が作られていた。衣服は肉体の従属物としてそこあった。

 筋骨格の構造を包む皮膚をさらす裸身。それをさらに覆い隠す衣服。この時の衣服は、鳥における羽毛と一見似ている。カラフルでふわふわな羽毛を取り除けば、鳥も細く筋張った皮膚に覆われた裸身を晒す。
 しかし、鳥の羽毛は人の衣服とは違って従属物ではない。それはあくまでも身体の一部であって、彼らの生態様式と密接に関係しているひとつの器官なのだ。そう考えてくると、鳥の骨格というのは人間の骨格よりもさらに一段階深いところにあるとも言えよう。
 だから、鳥の骨格を生体とリンクさせるには、人間よりもさらにひとつ連結要素が多く必要になるのではないか。そのことが、鳥の骨格と生体の印象が繋がりにくいことの要因なのだろう。

 骨格の知識は、鳥の美術解剖学でも大切だ。鳥の場合はそれに加えて、やはり羽毛の情報が欠かせないものだろう。私たちが鳥を見るとき、クチバシや脚を除けば、ほとんどその体型を決定づけているのは羽毛である。そこには翼も含まれる。色彩を取り除かれたそれらが鳥の隠されていた形状を示すだろう。羽毛はそれが生えている場所の動きを外見に連動させる。そう考えると、鳥の美術解剖学として人間のそれと決定的に違う点は羽毛の情報である。

 そんなことを、発表を聞きながら考えていて、その根底にある、「鳥は絵画的生物」であることも個人的に興味深い気付きであった。

2016年1月8日金曜日

彫刻は何を伝達するか

 彫刻は、形態を形態のまま扱う。
 形態学は、形態を概念化して扱う。

 もっと細かく言うなら、彫刻は形態を概念化して捉えるがそれを最終的には形態へ戻そうとする。いっぽうの形態学は形態を概念化して捉えるまでだ。それは言語で抽象化されて表される。
 だから、形態学の一派である解剖学と、芸術の一領域である彫刻とは、似ているけれども全く同じではない。どこが違うのかと言えば、最終的な出力先が違うということになる。しかしそれは小さな違いではない。言語と非言語では、相手に伝わるものが大きく異なる場合があるからだ。この事実は、彫刻という非言語的表現物が何を語ろうとしているのかを考えるヒントになる。私たちは、彫刻から何を感じ取り、何を読み取る事が可能なのか。その事についての客観的な考察や調査が行われたことはあるのだろうか。彫刻は(それ以外の視覚芸術も含めて)どこまで伝達的役割を担っているのか。そのことに入り込むためには、彫刻が伝達することが出来るキャパシティについてまず知らなければならない。私たちは立体から何を得ているのだろう。それは公共的か私的か。気になる。
 視覚伝達についての書籍はあるけれど、芸術における伝達は、その範疇を超えるはずで、より広い視点が必要になる予感がする。

2016年1月2日土曜日

輪廻

 宗教や死生観について考えていたわけではないのだが、ふと思い至ったので記録しておく。

 ピカソの絵は、「幼子の落書きのよう」と「凄い絵」としての高価値とが共存している。そのまか不思議さを納得させるためか、「あんな絵を描いていたけど本当は凄い上手なんだよ」というセリフもよく聞く。10代の頃のアカデミックなデッサンと共に。このセリフは、デフォームしたピカソの絵を全く理解も認めもしないという告白であることを、話している本人が分かっているのかどうかは知らないけれど。
 ピカソが少年期にアカデミックなデッサンを習得していたのは事実だ。そして、デッサンを学んだ人なら分かるように、それは指導者の言うとおりに進めていけば大体誰でも習得できる類のものである。この手の見間違いは言わば、スキーなどテレビで見たことしかない人が、パラレルで滑れるというだけで「上級者だ」と思ってしまうことに近い。ピカソはアカデミックな技術を習得したが、その様式だけに乗っ取ることをやめようとした。それはとても意識的な行為であって、幼子の落書きと同じような意識的手順を踏んで出てきたものではない。実は、この事こそがピカソの”凄い”ところなのだろう。ピカソは幼子のような絵を目指したというより、幼子のように世界をもういちど見たいと欲したのだ。しかし、私たちは成長し様々なことを知ってしまうと、もう知らなかった頃には戻れない。だから、幼子のような「純真無垢」とは何であったか、あらたに探求せざるを得ないのである。無意識を意識で探求するという、この矛盾的な行為の表現的軌跡が、ピカソのモチベーションの1つにあったかも知れない。いずれにしても、そういった試みは成功し、鑑賞者にも受け入れられるものとなった。私たち鑑賞者という「意識的になってしまった大人達」は、そうであっても、再びあの「純真無垢」的な世界を見ることができる可能性をピカソの表現によって知らしめられたのだ。これは単に絵画表現の多様性の発見に留まらず、我々人類の意識の成長をさえ指し示すような、全人類的な発見とさえ言えるのである。つまり、ピカソによる絵画表現の革命は、ピカソ1人によって成し遂げられたのではなく、それを感受し認めることができる我々鑑賞者もあって、始めて成り立ったのだ。
 ひとつの例としてピカソを取り上げたけれども、上記のような事柄は、芸術に限らず、様々な領域で人類誌的に起こってきたのである。そういった「意識の改革」が、我々を現代の状況へと導いてきたとも言える。
 しかし、それが人類的な発見であったとしても、それによって人類の意識改革が一気に起こるはずもない。多くの人に伝わり認められたとしてもなお、私たちは容易にそれ以前の意識状態へと戻ってしまう。ピカソの例のように、それが芸術表現に関してであれば事は穏やかだが、より生活に密着した宗教観と結びつくと、時には考えの違いを乗り越えることができずに力に訴える事になりがちである。誰もが意識では分かっている。我々は「幸せのために、争う」という矛盾を。だから、それを意識的に改善し「幸せのために、争わない」という当然をかなえようとも努力しているのだ。
 理想を目指す意識的な行為と、しかしそれを拒むかのような様々な矛盾たち。しかし理想を目指す行為をやめなければ、何らかの変化は起こるだろう。それが本当に理想の答えに近づいているのかは分からないけれども。この一連の活動は、ぐるぐると輪を描くように始まりからまた同じ場所に立ち帰るように見えながらも、スタートとは違うところへ我々を導いていく。

 この様こそが、輪廻ではないか。ふと、そう感じた。

 輪廻とは、一般的な感覚として生まれ変わることのイメージがあるが、それだけでなくとも、様々な段階での輪廻があるのではないか。意識が理想を目指し修正を繰り返しながらそこへと向かうさまは、短いサイクルで見れば同じ場所を巡っているだけに映る。しかし、より長いスパンでそれを見るなら、上を目指す螺旋を描いているのかも知れない。その螺旋の頂点にあるのが、究極の理想としての解脱である。ただここでの解脱とはイデアのようなもので、決してたどり着く事はない。
 理想への道のりは、真っ直ぐの一本道ではなく、正しいと思っていても簡単に誤ってしまう。それでも、向きを修正し歩みを止めず、再び進む。それの繰り返し。1人の人生でもそれはあり、人類全体もそれをし、生物としても本能がそうしてきた。
 これを輪廻と呼べるなら、それは自己相似的に大小さまざまなスケールにおいて見られる、言わば生命現象のひとつの型なのかもしれない。

情報の整理

 感覚に触れるどんなものにも「レベル」がある。感覚に触れるものというのは、言い換えれば私たちが感覚する対象のことで、さらに違う表現で言うなら、それは私たちが主観的に感じる事柄のことだ。何だかまどろっこしい言い方になったけれど、直感的に分かりやすいたとえで言うなら、幼少期に見ていた世界と今見ている世界の違いという類のことである。アフォーダンス理論のギブソンは直接知覚論において、情報は外部世界にありかつそれらはパブリックであると言った。パブリック、公共的であるということは、そこからどんな情報を得るのかは、得る側つまりそれに出会った私たち側にゆだられているということだ。外部世界の刺激に対応して何らかの知覚、感覚を引き起こしている私たちにとってそれらは、およそ全ての行動のきっかけとなるものだ。

 しかしながら、私たち人類は、同種つまり人間ばかりが集まって生活圏を作り上げる特殊な生き方をしている。身の回りにあるものの多くは、人間が人間の為に作り上げた物なのだ。それらの物は、非人為的な外部自然とは全く違う趣きを持つ。すなわち、”存在に目的がある”。車は人や物を載せて移動するという目的。冷蔵庫は中で食料を冷やしておくという目的などなど。それら、明確な目的の元に作られた物たちに対しては、次は私たちがその役割を”正しく読み取り、扱う”ことが求められる。かつて自然界において、火と対峙していた私たちは、それを「灯り」としても「調理の道具」としても用いたが、いま台所のコンロで燃焼している火はもはや灯りとして用いることは”誤った使用法”となった。人間界における物たちはそのどれもが意味を内包している。火が内包する意味は元来無目的でパブリックであった事実は、本質的には今も変わりがない。しかし、文明という形式に則るのであれば、その上に加わる「定義」に従わなければならない。これは人間文明の中で生きていくのであれば必須のスキルである。ギブソン的なパブリックな意味合いの上に、ここでは人間界としてのある偏向した意味合いが加わっている。これをここでエピパブリックと仮称する。こうして、元来の自然物として世界から読み取られるパブリックな情報から、あるバイアスが掛かったエピパブリックな情報まで世界には「レベル」がある。
 更にまた、横の広がりもそこに見られる。パブリックな情報が、エピパブリックな情報へと「区切られる」とき、それまで無段階的な広がりを持っていた情報に断絶が生まれる。先に例えで出した火が、「灯りの火」と「調理の火」とに区切られたように。灯りか調理かは具体的な目的を持った区切りだが、区切りはそういったものに限らず、より主観性が詳細に入り込むことを許す。この横への断続的な広がりを、ここではパラパブリックと仮称しよう。パラパブリックの詳細性が顕著になるのは、人為の介入と比例するようだ。つまり、その最たるものが芸術などの表現物である。絵画や音楽、文学や映画などは段階こそ様々だが、かならず情報がエピとパラのパブリック性を帯びている。
 子供の頃にはまったく興味の沸かなかった作品が年齢を重ねると良さが分かるという事はよくあるが、それは、感受する我々が、作品が持つエピとパラのパブリック性の範疇に入ったことを意味しているのである。
 
 エピとパラのパブリック性は人為によってもたらされるという点を改めて強調したい。それらは、非人為物には存在していない。結果的に自然物と非常に似通っているものは多い。例えば、自然界において黄色と黒色のコンビネーションは警戒色で、ハチのように毒を持つ動物がその色合いを持つことがある。同様に、線路の踏切も黄色と黒色の縞模様が用いられる。それらを見て、私たちが主観的に湧き起こる「警戒」という感覚は同じだが、ハチの色合いから得るのはパブリックな情報であって、踏切の色合いから得るのはエピパブリックかつパラパブリックなものである。
 
 以前、芸術における裸体の問題、つまりネイキッドとヌードの違いについて考察したことがあるけれども、それもこれで明確になる。すなわち、裸体をパブリックな情報として捉えるのがネイキッドであって、そこに表現が入り込むことでエピとパラのパブリック性を帯びた裸体がヌードである。つまり、ヌードとなることで、裸体は自然物から人為的表現物として変化していると言える。

 さて、これまで述べてきたものは、全て外部が内在する情報についてであって、私たちがそれらについて感じ、語ろうとする時には既に私たちの主観のフィルターを介していることを忘れてはいけない。だから、ある特定の事物についての好みや感じ方は非常に細かく細分化されるだろう。自分が何らかの対象と対峙したときに何を感じているのか、それは一寸捕らえどころが無く感じられるけれども、その発端である情報を、まず区切ってみることで、整理される部分も大きいのではないだろうか。