2016年6月10日金曜日

藤原彩人展「像と容器」への文章

 藤原彩人氏の作る人体像は、そこにあるけれどもないような、不思議な存在感の希薄さをまとっている。展示会場で作品の前に立っていてもなお、目の前の作品がそこにあるわけではないような感じ。それはまるでぼんやりと人間の姿を思い起こしているような感覚である。

 何でもない壁のシミに人の顔や姿を錯覚したことがあるだろう。本当の顔ではないと分かってもなお拭い去れないほどそれらは強く印象に残る。どうやら私たちは誰もが人間の顔や姿についての枠型を頭の中に持っていて、その枠型にフィットするものなら何でもそう認識されるようだ。写真のような生き写しはもちろんのこと、漢字の「大」の字のような棒人間にまで省略されても人間に見える。ただ単純化されるほどつかみどころがなくなり、記憶や印象の深い部分へ沈み込んでいってしまうように感じられる。こころの深い部分にいるそれらは、本来は実体化される対象ではないのだろう。
 ところが藤原氏の作る人体像は、まるでその深い部分にある人のイメージが形を持ち、そのまま目の前へ立ち現れたかのようだ。関節や筋肉など人体内部の構造描写がひかえめであることが、見る者の頭の奥にあるおぼろげな人体イメージと結びつけるのかもしれない。

 彫刻はいつも素材と技法の制約の上で制作される。陶で作られるこれら作品の内側は、焼成時の破裂を防ぐために空洞である。その人体像の顔を間近に見ると、かすかに口を開けている。その口は見る者の意識を作品の内側へと導く。その時、今まで裏方に徹していた空洞は作品を成り立たせる要素となる。内側の見えない部分も含めて存在が成り立っているという視点は、私たち自身の在り方とも重なる。像の口を通して繋がる空洞面が裏と言うより内なる表であるように、私たちの腸内腔もまた口を通して体外空間とひと繋がりである。そして、飲み込んだ食物は腸内腔に溜め込まれ、反対側の出口から排出されるまでの間に腸壁という内なる表からその養分だけが体内へ吸い取られるのである。なるほどそう思えば、私たちの体はまるで底に穴の開いた器だ。実際、生物の体は細胞が集まって出来たシートが器様の形を取ることから始まるという。器によって外界を「一杯くみ取る」事が動物の個体存在の始まりなのだ。
 いくつかの作品に見られる壺状の形もまた人と器の形態的な相似を想起させる。食べて生きるだけではない私たち人間は、それぞれが抱え持つ思念さえも「自分というかたちの器」に溜め込んでいる。


 人体像は全身が有機的な曲面からできている。鋭角的な造形部位は顔や指先などの細部に見られる程度で、体の大きな造りはグニャリと柔らかく、下へ行くほどボリューム感を増していく。その特徴的なプロポーションは焼成前の柔らかい粘土の人体像が、支えなく自立するための必要性から自ずと導かれたという。筒状の粘土の腕は肘関節で折れ曲がるというよりゴムホースのようにしなって変形している。要するに、これらの人体像は体の支え−骨格−を内側に持たない「骨抜き」なのだ。身体の支えを持たない彼らは意識的に起立しているのではなく、ただぼんやりと立っているように見える。骨格という支持器官を内に持たなければ、伸ばそうとした腕さえ外部に置かれた梁によって支えられなければならない。それを隠さぬ潔さはゴシック建築の飛梁を思い出させもするが、不動の建築物とは違って、動く腕−実際に焼成時に動くという−に従うために梁の配置は不規則になる。それは運動を暗示しつつ腕を拘束し、それまで不可視だった力学的構築を表出させている。

 藤原氏の創り出すこれら人体像は、人の形の模倣と言うよりむしろ、心のうちにおぼろげに浮かぶ人の姿が土の肉体によって具現化されたものだ。だからそれらは私たちと同様の空間の制約を受けつつも、解剖学的な説得力を持った一個人として屹立しているのではなく、儚く捕らえどころがない態をして佇んでいるのである。


藤原彩人展 「像と容器」
ギャラリーせいほう
〒104-0061 東京都中央銀座8丁目10−7東成ビル 1F
2016/6/6(月) - 6/17(金)
11:00 〜 18:30 最終日 〜17:00 日曜休廊
http://gallery-seiho.com/

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