先日、芸大美術館の「いま、被災地から」展を再度鑑賞した。目当ては高橋英吉の代表3作品だが。
改めて見て、この”海の三部作”は、1938年から1941年の間という3年間の間に作られたとは思えない充実度と完成度を持っていることに驚く。それと同時に、この3作の様式が全て異なることも興味深い。
最初の作品『黒潮閑日』が初期作品だというのはその造形からも納得がいく。と言うのは、身体構造を真面目に、忠実に追おうとしているからだ。ただ驚くべきはその技量で、一人の人物像であっても、全体感を損なわずに仕上げることは難しいであろうところを二人の人物で構成しているところだ。今回改めて見て、手前のあぐらを掻いている男性の表情が剃刀を当てられている事に反応して、僅かに唇を右側に歪ませている事に気付いた。それだけではなく、彼の顔面構造全体もアシンメトリーに仕上げられている。それは意図された歪みであって、刃物が当てられている頬に意識を集めている男性の心持ちが伝わってくるように感じられる。ひげ剃り役の男性の両脇には空間が空いている。狭い脇まで良く意識が届けられている。驚くべき観察力と集中力であって、またそれを作品として仕上げる木彫技量にも改めて感嘆させられた。
『潮音』はその翌年の作品だが、作風が随分と違う。ノミ跡は荒々しく、人体描写も前作のような写実性というより、スタイルの主張がもはや強くなっている。そうはいっても、解剖学的構造への厳しい目は健在で、それを基盤にしつつ、西洋古典の人体描写スタイルを盛り込んでみたという実験的な要素をそこに見る。
異質なのは『漁夫像』だ。表面仕上げへのこだわりが強く、小さな刀で面を細かく割っているので、遠方から見ると滑らかな皮膚面に見える。また、手前へ膨らみ出るような曲面で構成されているので、ボリューム感が強い。実際、3部作の中でも最大である。近寄ると両脚や体幹部の迫るような量感に驚く。私感だが、良い彫刻はこの感覚をしばしば与える。そういった、彫刻として成り立たせる量の操作には揺るぎないものさえ感じさせるが、この作品だけは、身体描写が他の2点と異なる。身体描写の解剖学的な正確さからもはや逸脱しつつあるのだ。その”外れ具合”は、どこか1点というようなものではなく、全体に満遍なく見られる。高橋は、間違いなく、何らかの意図があって得意としていた正確な身体描写から離れようとしたのだ。その顔がエジプト・アマルナ文化を参考にしたことは間違いないと思う。体全体も改めてその丸く、細部を省略した描写を見ると、同じく古代エジプトの木彫像カー・アペル像(通称、村長の像)を彷彿とさせるものだ。もしかしたら高橋は前作の後に、もっと身体全体を1つの様式でまとめ上げる必要性を感じたのかも知れない。台座に乗る両足も丸く、足指などは個々の関節など無頓着である。そこには足の構造というよりむしろ、ひとまとまりとしての足を表したかった意図を感じるのである。そういった全体の統一感を見るには「様式」がヒントになることに気付いたのだろうか。
さらに両腕の描写も今までと違って正確さと違う意図を感じる。肩から肘までの上腕部前方の膨らみを見ると、僅かだが頂点が上下に2か所設けてある。両腕がそうなので、これはわざとそうしてあるのだ。しかし、実際の腕では膨らみはそうならない。肘を伸ばした状態の上腕二頭筋は引き伸ばされることで、筋腹の膨らみが上下に長く見える。それを強調するために中間部をわずかに掘り下げたのだろうか。もしくは、何かほかの参考作品がある可能性もある。<追記:上腕二頭筋の筋腹の高まりがその中間部がわずかに低く見えることが実際の体でもある。その形態的理由はまだ分からない2016/08/14> 肘を介して前腕部へと移行する肘部の造形も実際のそれとはちがって変形が目立つ。肘の外側には腕橈骨筋と長橈側手根伸筋がアクセントとして見えてくるのだが、今までは忠実に造形していたそれらを意識的に弱めて、上腕部と前腕部とを明確に分離しようとしているかのようだ。つまりは、「人形のように」しようとしている、とも言えるだろう。今回見て、殊更目に付いたのが上記だが、同様の意図的変形は全身に及んでいる。だから、3作を並べてみると、この『潮音』だけが異質に見える。異質だが、彫りきって完成仕切っている。
高橋はこの作を彫り上げて、戦地へ赴き、戦死した。大きな作風の変化の兆しだけを残して。
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