2017年9月4日月曜日

嫌いがあっての好き

 ずっと以前、予備校生時代に同級生が、「流行に乗らないって言う人は、既に”流行に乗らない”という流行に乗っている」と言って、巧いこと言うなと関心して今でも覚えている。自らや周囲の人の観察から、確かにそういう傾向はあると今でも思っている。
 「私は流行には乗らない」と意識的になるには、まず流行に意識的である前提がある。だから、「流行に乗らないファッション」と、「流行に無頓着なファッション」とは、その結果的な格好が似ていたとしても、そこにたどり着く過程が全く違うのである。「流行には乗らない」と豪語してたどり着く”無頓着ファッション”は、言っていれば一周回って帰ってきたのだから、その道程は、流行に乗っている人よりむしろ長い。
 これは、芸術表現で例えるなら、ピカソが追求した「子どものような絵」だ。子どもの落描きのようだと言われる奔放な表現は、幼少期にそういう絵を描くひま無くトレーニングを積んできたピカソが、それこそ一周回ってやっとたどりついたスタート地点”風”の表現である。
 
 自身の経験だと、学生時代は、ワイシャツ姿のサラリーマンファッションは自由が無く好きでは無かった。なぜ、他の格好をしようとしないのだろうと思っていた。いざ、そういう年齢になって自分が着てみるとすぐに分かった。これは意識的なファッションというより制服であって、むしろ何も考えなくて良いので楽なのだと。楽だから、これだけ皆がその格好をし続けているのだと理解した。

 時々、自分の敬称について、「”さん”付けしなくて良いよ。」と後輩や出会った人に”わざわざ”提言する人がいる。つまり、そう言う彼らは、”さん”付け呼称に何らかのこだわりがあるということを意味している。もしかしたら、本当は”さん”付けして呼んで欲しいのかもしれない。それ位の強い意識性がそこに横たわっている。もちろん、他に理由はいくらでも考えられるけれども。
 私は職業柄”先生”付けで呼ばれることが多い。かつての教え子と仕事をするような事も起こるが、相手は呼び慣れた”先生”付けで私を呼ぶし、私は”さん”付けで相手を呼ぶ。互いの立ち場が変わったのだから、私の事も”さん”付けに変えてもらって良いと思うことがある。が、相手をどういったイメージで見るかはその人の自由なのだから、敬称変更の提言はしない。

 どうやら私たちの脳は、対象を対極に分けて分析するようにできている。だから、「対の概念」は実に多い。「好き」という答えを導くには「嫌い」が定義されていなければならない。あるアイドルがテレビで「僕のことを嫌いだと言われてもうれしい。嫌いだと言うだけ僕の事を考えてくれているという事だから。」と発言していた。前向きな考えだとそこでは言われていたが、うれしいかどうかは別として、嫌いと言われるだけ意識されているというのは事実だ。意識されなければ好きも嫌いもない。

 下された判断にはそれと真逆の比較材料が机上に乗せられているという事を考えるのは、なかなか興味深い。


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