初めて代官山の蔦屋へ行った。美術書も”当然”充実していて、特に写真集が豊富だ。そこだけで数時間過ごす。エディション付きの少部数ものも多い。うれしいのは、そういうものもサンプルとして中が見られるようにしてある。作家のノートやドローイングブックがそのまま写真集になったものが意外と多く(書店側がそのように集めたのだろうけれど)、それらは作家のプライベートがそのまま見られるようで興味深い。
その中で、写真が本ではなく、紙箱の中にいれられた状態で売られている物があった。それぞれの写真は全て印刷物だが、裏も詳細に印刷され、あたかも実物に見える。それが紙箱に収められているので、誰かのコレクションを垣間見ているような気分になる。箱の蓋には1枚写真が貼り付けてあるのだが、箱毎にそれが異なっていた。作家の名前は、クリスチャン・ホルスタッド(Christian Holstad)で、タイトルは『Fellow Travelers』。
それぞれの写真は、紙の厚さや表面の質まで詳細に複製されており、”物としての写真”の複製が成されている。含まれている写真は、どれも”いつかの、どこかの、だれか”で、ハロウィーンの時期に撮影されたものだ。幾つかには裏面に当時のメモが書かれていて、それを見ると古い年代は1919年、最近のものは2001年。作家がどこから集めたのかは知らないが、匿名性のある、それでいて個人的な写真だ。ただでさえ赤の他人なのに、その多くが今も存命かどうかも分からない古い物で、更にはハロウィーン仮装をしているので、被写体の人物との感覚的距離感が非常に大きい。そうであるのに、こうして異国で複製され(この作品の印刷は日本で行われた)、誰かの手に渡っていく。
これは写真集ではない。写真集は、通常、そこに印刷されている”内容”が作品であり情報である。それに対してこの作品は、印刷された”物としての写真”が主体である。存在そのものが重要なのだ。紙質から印刷まで正確に複製されている様は、1つの原型から同じ商品が幾つも作られる現代を表しているようにも思える。そう思うとこの作品は、子ども達が遊ぶトレーディングカードのセット(デッキと呼ばれる)に似て見える。
光学情報としての写真は、今や本質的には、紙である必要が無いとさえ言える。一方で、物質である紙を媒体とすることにこだわる作家もあるだろう。実際、物質性にこだわった、”物としての写真集”がいくつも置かれていた。デジタル情報がすっかり普及した現代において、写真家は”光学伝達の芸術家”ではなく、”光学伝達を含む表現全般の芸術家”に変わりつつあるのだろうか。それはもはや写真家ではなく総合的なアーティストの事である。伝達技術の革新とともに、従来のカテゴライズは当てはまらなくなるという事実を、都会の書店で感じた。
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