今では、古代エジプト文明の彫像や古代ギリシア文明の彫刻たちは、美術のカテゴリーで語られ鑑賞されるが、それらが作られた当初では宗教的な目的を持った神聖な像だった。像によっては、一般に見せる目的すらなかったものもあったろう。それは、日本の仏像も同じで、美術館に仏像が運び込まれ、私たちはそれらを美術”品”として鑑賞する。品であるそれらは、まぎれもない”物”として扱われる。どこかの誰か、つまり人間の手によって創作された物として。かつては違った。それらは、仏、神そのものとして崇められ魂がある存在として扱われていた。”人間によって作られた物”として捉えられてはいけない、そういう特殊な存在を帯びていたはずだ。
つまり、神像や仏像は、動かないけれども機能を担っていた。それらは教義と結びついて、その宗教世界感に現実味を与えなければならない。変わりやすい現世に対して恒久的である宗教世界は普遍的な表現でなければならない。だから宗教美術は決まり事が多い。
現在でも進行され続けている宗教ならば、その表現の意味合いも分かりやすい。一方で、既に廃れてしまった過去の宗教に基づいた造形物はその形や表現の意味合いを察することは難しい。エジプトやメソポタミア文明そしてギリシアの彫像を思い出せば分かるように、教義が途絶えた神像たちは、純粋にその形状の美しさで語られるようになる。これは、本来の機能を失ったために、当初の目的とは異なる価値で捉えられるようになったのだと言い換えられるだろう。
唐突だが、最近の自動車に関するニュースを見て、神像が美術品となったのと似たことがいつか起こるような想像をした。フランスやイギリスは、2040年までに石油燃料で走る自動車の販売を終える予定だという。燃える液体をチャポチャポとタンクに注いで、その爆発の”勢い”で走るというのは、確かに産業革命から余り変化していない。それが電気や水素などに変わることは進歩的ではあるが、とは言え4つの円板を回転させて進むという方法自体は、それこそ数千年前のアイデア(コロで巨石を動かすなど)のままである。このまま人類が無事に進めば、いつか”タイヤで転がす移動手段”は完全に過去のものになるかもしれない。そうすると、やがて今の自動車が、”移動道具”という当初の目的とは異なる価値で見られるようになるだろう。数千年後に地中から掘り出された自動車は美術館に並べられる。その時代の美術書には次のように書かれる。「その形は、使われていた時代の文化様式を反映し、大きさは人体尺から導かれている。外形は多くのカノンを基にしながら時代ごとの美しさが追求されていたが、やがて個人のデザインから機械にとって変わり、全世界的に画一的となって行く。・・」
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