「無い」を証明することはできないと言う。1つでも「在る」ことが明らかになればそれは覆される。だから「無い」は常に暫定的決定である。とは言え、「無い」と決めないことには先に進まないこともたくさんあるので、我々は自らが決めたその暫定的な決定を、一旦は信じることにしている。何より、「無い」という言葉の持つ意味は強い。
「口をつぐむ」と言うが、相手に言いたいことがあるけれどもあえて言わない、もしくは関係性の中で言えないという事がある。何らかの対話において、相手からの意見がなければ、それは同意か少なくとも反対ではないだろうと捉えられる。しかしそれは彼が「口をつぐんでいる」だけかもしれない。レスポンスが「無い」ことが、反対意見が「無い」こととは限らない。いつか、つぐんでいた口が開かれ、「無い」と信じていた反対意見が「在る」ことを知らされるかも知れないのである。
「無い」と言える精度を高めるには、多角的な検証が必要だ。できるだけ多くの検証作業において「無い」と言える要素が集められるならその可能性はより高まる。つまり、「無い」ということを積極的に追求しなければならないのである。目の前に無いから、と言うのであれば、それは「無い」ではなく「見えない」であって、両者は別なのだ。
「在る」は非常に明解だが、「無い」はややこしく、あいまいである。言葉が対の概念を示してはいるけれども実際の趣きは随分と異なるのである。そもそも、概念として「無い」は「在る」の対語として現れたのだろう。我々が、そこに「在る」ということ、存在を抽象化することに成功すると、対概念として「存在しないこと」が立ち現れ、それが「無い」となる。つまり、「在る」は常に具体性を含んでいるが、「無い」は初めから抽象的な概念なのだ。
「無い」と言えるには先ず「在る」の内在が仮定されているのだから、容易にそれは覆される概念なのだ。違う言い方なら、「在る」が存在し得ない「無い」はそもそもあり得ない。そう考えると、「無い」ことの脆弱性を感じる。「無い」など、無い。
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