2016年12月10日土曜日

知覚の前の感覚で、外世界は単純化、強調化が成される

 知覚の前の感覚で、外世界は単純化、強調化が成される。そうして選択が行われ、その結果が意識的な選択として提示される。私たちは世界を生のまま感じ取っていない。頭に浮かぶ道のりや落書きの顔、ああ言ったものが捉えられている。むしろ、知覚としての外現象は、それら単純化強調化された感覚と現実の擦り合わせに働きさえしているだろう。話を戻すが、単純化強調化された外世界は情報の少なさと強さから、選ぶ対象にバイアスがかかる。普段、ことさら意識せずに捉えている外世界はこの様な単純化されたものだろう。意識化の貢献はそれを浮き立たせ、内なる外世界として改めて提示した事だ。無意識的判断はそれらをさらに単純化させて判断の材料として用いる。単純化、強調化、そしてそれらの意識化つまり記憶と言語が人類文明を生み出したと言っても過言ではない。実世界には存在しないのに誰もが知っている丸や直線などの幾何形態は脳が世界を捉える過程で生まれ、世界の認知と選択に常に用いられている計測道具なのだ。

 ところで、ホフマンが言う、我々が世界をそのままで見てはいないと言うのは、無意識的な状態に限られるのではないか。いやカントが言う様なそのもの自体が見る事はできないと言うのは納得する。何故なら、私たちは写真の様な絵を描けるし、何より写真機で撮られたものを認識できるではないか。正確に言うなら、私たちは普段はラフに世界を捉えているが意識によって詳細に捉えることもできるのである。網膜で情報の初期処理が成される、その次段階、具体的にはV1まで我々の意識は遡って到達できるだろう。つまり、視覚的発見は外世界の探索ではなく、内世界でのそれである。そう思えば、科学的発見も同様だ。我々は既に感覚が認識済みの外情報から再構築された内なる外世界を探索しているのであろう。何故なら私たちは自身の知覚器官で感受できる以上の世界は知る事ができないのだから。
 ところで、私たちの感覚器官が種類ごとに分かれている事は注目すべきだ。始め、体は世界を感覚的に分断されているのである。それが、脳内で組み立てられる事で私たちの知覚となっている。皮質では機能は局在している。その、いわゆる感覚のゴール近くまで感覚は統一されないままである。私たちが意識で、見る、聞く、などと言い分けられるのも、機能局在の感覚まで遡ることができるからであろう。


 話をまとめると、意識は無意識によって単純化強調化された外世界を、内なる外世界として再提示する。それがさらなる無意識的判断へと繋がる事が、世界に秩序を見出し、結果文明を作るにまで至った。

2016年10月28日記す

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