2016年12月10日土曜日

「今」を紡いで作られる物語

 どんな人生だったとしても、死によって終わる。それは究極的な平等のようにも感じられる。そして、死は生とは異なる現象にも見える。もちろん人生で出会う他者の死(家族や身近な者の死も含めて)は特別な意味を持つが、ここでは主観的、つまり一人称の死について記述する。死は全てを奪うと言われる。ここで奪われる全てとは、記憶のことだ。私たちが今ここに居ると実感するのは、その瞬間までの記憶に基づいている。その記憶に基づいた上に現在を実感するが、その現在の認識もまた直前の事象の記憶に他ならない。そうして継続された記憶と直前の記憶を足がかりにしてこれから起こるであろう未来を想像する。生の実感とはこの内的な物語に由来する感情のことだ。この実感は強力で、そのお陰で私達は自分が疑いなく生きて存在しているのだと信じ切れる。この記憶に基づく生の実感が死によって失われる。記憶は情報に過ぎないのだから実体はない。未来も過去も私たちの主観世界に作られた虚像という意味で同列である。過ぎた事から未来までを同様に感じられるのはこのような性質の同一性によるのだろう。現象として起こっているのは、瞬間瞬間の「今」だけであり、それを紡ぎ合わせて作り上げた記憶の物語が、自分が今ここに存在する実感を生み出している。強調すべきことは、瞬間瞬間の「今」には、何らの継続性や物語性が存在していない事だ。たとえば、朝に顔を合わせた家族が夜に帰宅して再び会うことは当然に思われるが、それは目の前のコップから目を反らせて再び見たときに相変わらずそこにあることの当然性と本質的には同列で、「さっき存在したのだから、いまも存在する」という物語は我々が作り出している。目の前のコップの存在継続性を納得させるものとして物理学などを持ち出すこともできるだろうが、それを知らずともコップが存在し続けることは記憶という主観が担保してくれるのである。ところで、朝に顔を合わせた家族は目を一瞬そらせたコップより不確実性がはるかに高い。つまり、朝に顔を合わせた家族とその晩に再び顔を合わせるとは限らず、何らかの理由で再び会うことがなくなるかもしれない。そうなった時、見慣れた室内はそれまでとは違って見えるようになるだろう。だが、物理的な世界そのものは変わってはいない。世界を感じ取る我々が変わったのである。この様に、生の実感をもたらす主観的な世界は決して不変ではない。物語は世界には無く、それは私たちの中にあるのだから。一人称の死はその物語の消失を意味する。すなわち、死は全てを奪うと言うよりむしろ人生の「語り部」の消失を意味する。奇妙に聞こえるが、物質的な側面から言うなら私たちは死後の世界にそもそも存在しているのだとさえ言い換えられよう。生は、瞬間瞬間の「今」しかない死の世界の事象を紡いで作り上げられる形なき、そしてかけがえのない一度きりの物語なのだ。

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