2016年12月10日土曜日

生と死の所属

 自死がなぜあるのかと考えて、しかし、それは個体死の一形態だと考えれば、違和感も薄まる。種としては一個体の死はさほど問題とならない。種存続が本能であるなら、死なない方が良いではないかと思うが、それも同様だ。種存続には個体死が必要であり、その死のバリエーションとしては自死があると言う事だ。しかし、意識は死なない方が良い、と考えてしまう。これは個と全体の振る舞いの違いが現れている。種全体の存続は個レベルの継続性の積み重ねだからだ。そうなると、生死には所属の違いがある様だ。すなわち生は個の欲求で、死は全体(を維持するため)の機能である。より正確に言うなら、どちらもが全体の機能として働いているが、個体はより生を欲求する意識を持った。それはどうしてか。まず単純に、死を選んだなら存続しないからである。我々は選ばなかった側である。それに従って、意識は生に肯定的になるだろう。正しくは、肯定と言う自己内環境がそうして現れる。生が「拾われ」生き残る事でより生を拾う向きに偏る。それが社会性コミュニケーションの中で意識化され、「生きた方が良い」と口走らせる。

2016年10月26日記す

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