2016年12月10日土曜日

モチーフとモデルの所在(12月2日・造形大・ラフ)

 美術のモデル。造形において作家が参考とする物。その物自体ではなく代わりとして置かれた物、言わばそっくりさんである。美術で用いられるモデル(それがリンゴや椅子であってもヌードであっても)は、形の参考として見られる。画家はそこに置かれたモデルその物を描くことが目的ではない。描きたい”主人公”は画家自身の内にあって、モデルはそれを誠実に引き出すための参考物である。言わば主人公の代替物ということになる。美大の授業で用いられるヌードモデルもこの類である(注1)。
 写真にもモデルがある。写真のモデルは被写体のことで、対象は何でもなり得る。写真は光学的対象を「切り取る」行為であって、彫刻や絵画のように何も無いところから造形する行為と異なる。それでは撮影行為は、彫刻絵画と違うのだろうか。まず、写真家の中にある対象の印象「らしさ」を、実物「モデル」から感受しようという行為の発端は同じである。ファインダーを覗けばそこに光学的に正しい対象が映し出されているという点が異なるが、シャッターを押せば「らしさ」が捉えられる訳ではなく、陰影や構図など様々な構成要素をコントロールすることで「らしさ」に近づけていくという点では、彫刻や絵画と同様である。

 反対に作品から作家がどのようなモデルとして対象を見たのかを推測できる。人体表現に絞って見ると、発見されている人類最古の彫刻の1つであるヴィレンドルフ・ヴィーナスの姿勢や変形には作家の強い意志が感じ取れる。よく似た姿勢と変形の女性小像が複数発見されていることから、この像の特徴的なスタイルはたったひとりの古代の芸術家のセンスというより、確立された様式美である。3万年以上前に女神のような理想の存在があり、そのモデルとして女性が見られていた事が想像できる。古代ギリシアでも、神の理想形態のモデルとして人体は見られた。中世ヨーロッパでは、人体は単純化され言語や記号のように扱われていた。人体がモデルとして再び重要視されるイタリアルネサンスでは、人体解剖学が発展し芸術の人体表現に応用された。フィレンツェ派の掴めるような実在感は体表のみならずその内側の構造まで明確に認識しているという自信の表れでもある。解剖学が人体を統一する新しい根拠となり、関節をまたいだ骨の両者を腱で繋ぐことで彼らが理想としていた古典的人体像が持たなかった有機的調和を手に入れた。長い間モデルとしての人体は形態的な基盤として揺るぎのない地位にあったが、これが近代では変化する。恐らくは写真機の普及によって個人的感覚だった視覚経験の他者との共感が可能となり、また私たちは写真のように視覚するという感覚が根付いた。それを批判するように間もなく印象派が起こる。これが表現を人体形状から解き放つ契機となったのである。ロダンの作る人体像は表面が激しく波打ち、その作品たちは古典的な彫刻と違って、特定の個人のように見える。ひとつひとつは、ギリシア的なプロポーションや解剖学的なマニエラの呪縛から逃れて自由である。ロダンは「モデルを見なければ作れない」と言ったが、彼にとってのモデルとは代替物ではあっても、もはや形態的基盤ではなく彼が”感受するための”対象であった。

 人体は変わらなくても見方が変わると表現が変わる。視覚は写真とは違う。眼に入った光学刺激は網膜の段階で情報処理が始まり、それが脳へ届いてから諸要素に分解された後に様々な付加情報と共に再合成されたものが視知覚として意識に上る。つまり視覚は「見える世界を作る」能動的行為であって、視覚は写真の様に世界を捉えてはいない(注2)。印象派の芸術家だけではなく、実はこの事実を私たちは経験上よく知っている。それは、小さな頃に描いた家族の顔。紙いっぱいの顔面に目と口や輪郭全体に髪の毛といったものだ。あの奇妙に誇張された顔が、あの頃そう視覚していたことを示しているのである。必要な視覚情報だけが強調され、それらが私たちの行動のきっかけとなっている。行動のきっかけとなる特定の外部情報を行動生物学でシグナルと言うが、視覚は光学的シグナルを受容する器官だと言える。乳児は始め実際の母親をシグナルとして反応するが、やがて思い起こした内なる母親像に対しての反応もするようになる。この時の母親像をシンボルと言う。また「母親」という単語を目にした時、私たちは自分の母親を思い起こす。この時、母親という単語をサインと言う。私たちは様々なシグナルをシンボル化して扱う事に秀でている。例えば、「汲み取る」という行為がシンボル化する結果、汲み取る手段は手でもコップでも大きな葉っぱでも良くなり、さらには「話しの意図を汲み取る」のような使い方も可能になった。
 モデルはシグナルとして作用し、芸術家はそこからシンボルを形成する。単純な写真はシグナルの出力に過ぎず、印象派の芸術家が反発したのはそこである。シンボル化を経ている芸術作品は下位構造であるシグナルも含み、鑑賞者は更にそこからサインを読み取ることもできるだろう。芸術作品からシンボルやサインを受け取る事ができるのは人間だけである(注3)。


(注1)モデルの事をモチーフと呼ぶことがある。Motifは本来なら「主題」だが、同時にMotiveつまり「動機、原動力」の意味もあって、これらの意味合いが投影された物体としてモデルと同義に扱われているのだろう。

(注2)歴史的に見ても視る行為がずっと受動的行為として考えられていたわけではない。プラトンは目から出た光が世界を捉えると考えた。眼球の解剖をしたレオナルド・ダ・ヴィンチはそれが光学的器官だと直感したが、視覚を得るのは脳室における魂の働きと信じていたし、デカルトも魂の所在地が松果体へ移ったものの考え方は似ていて、どれもが視覚に「視ようとする」能動性が根底にある。それとは反対の「眼は世界を写真のように写す」という受動的な感覚を強めさせたのは、やはり写真の一般化が関係しているように思える。私たちの眼の焦点距離は決まっているのに、様々な焦点距離の写真を違和感なく認識していることも、私たちが写真のように世界を見ていない事を証明するひとつの事例と言える。


(注3)シグナルをシンボル化できる人間の能力をハイデガーは「(シンボル体系の)世界への超越」と言い、人間たらしめる行為とした。世界のシンボル化、サイン化はシグナル世界(生物学的世界とも言い換えられるか)からの超越であり、それを示す芸術は鑑賞者にそれを気付かせる可能性を秘めている。そう見れば芸術は、本質的には私的行為というよりむしろ公の認識可能性をおし拡げる行為であり、哲学に近い。哲学が諸科学の種であるように、芸術は広く人類の知的行為の種である。


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