2016年12月10日土曜日

自由意志考

 意識と自由意志を混同しない事。私が疑っているのは自由意志である。自由意志とはすなわち意識的な選択を本当にしているのかという事だが、もし動物のように本能だけならば、皆が皆同じ選択をするはずだ。確かに人間と言えども行動を大きなくくりで見れば似ているが、個々の細かな選択においては、自由に選んでいるようにも見える、もしくは感じられる。確固たる自由意志に見えるそれらも真実はそうではないと言えるような根拠はどこに見られるだろうか。意識的に選ばれたと感じられる事例をもとに考えたい。

 意識で選択すると信じられる大きな決断として自殺がある。自殺を遂行するには体性神経系と骨格筋が導入される。何故なら自律神経系と平滑筋は「意志に従わず」それらは一途に生きようとするからである。自殺とは生きようとする植物的身体を動物的身体を持って力尽くで殺す行為だとも言える。しかし、本当にそうだろうか。自殺をしようというのは意識だが、その決定に至る過程を遡れば結局無意識に突き当たる。その先は意識では分からない領域である。そう考えるなら、自殺もまた自由意志ではないということになる。
 結局のところ、体性神経系も随意筋も根っこは「不随意」なのだ。そうすると、身体とは状況次第では自らを殺そうとする性質がそもそも備わっているということか。細胞レベルではアポトーシスがある。アポトーシスは人個体の存続に役立っている。自殺が人個体レベルでのアポトーシスと呼べるなら、それは種の存続に役立っているのであろうか。なるほど自殺は耐え難い苦痛からの逃避とも捉えられよう。その苦痛の原因はいくつもある。まず、自身から発する肉体的なもの。これは分かりやすい。そうではない原因は自己を取り囲む環境によって与えられる。借金やいじめなどである。こう言った環境苦痛が自殺を選ばせるとはどういう事か。自殺が種の存続に役立つ判断として起こるなら、彼の死はその環境に益をもたらさなければならない。しかし、どうもそうとは考え辛い。第一、そうであれば、我々は自殺に肯定的になっているはずであろう。だが一方で自殺はその発生頻度を見ると、ことさら異常な現象とも言えないのも事実である。自殺を肯定的に取らえないのは、普通死を肯定的に取られないことと同じ事かもしれない。普通死もしくは自然死と自殺の違いは、やはりそこに体性神経系と骨格筋が積極的に関わっているか否かという事に尽きるようだ。換言すればそこしか違わない。ただし、それは小さな違いではない。自然死が人個体の生命現象な継続不能性の結果であるのに対して自殺は動物的身体によって積極的にその継続をやめさせるのである。その最終決定はどのようにして下されるのであろうか。動物的身体が自らを殺す行為がそもそも身体に備わっている機能であるなら、人以外の動物にも自殺が見られても良いようなものだが、どうもそうではない。仲間外れで自殺したり、身体的苦痛から逃れるように自ら命を絶つ野生動物がいるという話は聞かない。そうなると、自殺は人に特有の死の様式であるように思われる。では人間とそれ以外の動物との違いはなんであろうか。その最たるもの、人を人たらしめているものは社会性に他ならない。社会性とは集団にあって個体の意思決定より集団のそれを重視する性質である。全体を維持する事が結果的に構成要素である個体の生存を担保している。確かに我々は小さなコミュニティのレベルでは個人を尊重するが、マクロで見れば個人より社会性を優先する動物である。自殺の原因として目立つイジメ、疎外、借金苦などはなるほど社会性を帯びた問題だと言える。つまり、自殺を選ぶ人は間接的に周囲環境から自己の存在を否定され、不必要とするメッセージを与えられている。まるで環境が彼に死になさいと言っているかのようだ。社会的に作られた私たちはその環境から与えられるメッセージに応えようとする。社会性動物の性質が自死を選ばせるのである。
 それでは、病気や怪我などによる身体的苦痛からの自殺はどうか。先にも触れたが身体的苦痛から自殺を選ぶ動物は人以外にはいない。ここにも人間に特有の生き方が関係している。まず、自然界では身体的不自由が生じた個体は速やかに死ぬ。つまり、他の捕食者に殺される。我々だけが他者に守られる。その結果、苦しみが長く続く。つまり、苦しくとも、植物的身体は可能な限り命を続けようとする。それが何かのきっかけで自死へと舵を切るのである。そこにはいくつかの先だった情報があるだろう。その病は治らないであるとか、我々は自殺ができるといったことだ。それらの情報は環境から与えられたものである。そうなれば、やはり自殺は環境が自死を選ばせたと言えるだろう。つまり、自殺という究極的な自由意志、自由選択に見える行為も実はその発端は環境によって与えられていたのである。

 自殺という言葉と、我々は自由意志を持つという前提から、自殺の判断は本人によって為されたと一般には思われているが、実際はそうではないと分かった。それは周囲の環境によるものであり、言わば、環境による殺人とでも呼ぶべきものだった。


 以上から、自殺のきっかけは環境から与えられると了解するが、それに応える性質を我々が備えている事も驚きである。つまり私たちは自分で自分を殺すことができることを予め知っている。その様な動物が他にあるだろうか。これにも意識の獲得が関わっている様に思われる。そもそも、意識をなぜ獲得したか、その必要性は何かについてはすでに考察している。それは個体自身のためではなかった。自己経験を他者へ伝達するための機能として登場したと私は考えている。だから意識は言語と密接な関係性がある。言語は区切りがなく曖昧な自然現象に明確な境界線を引き、様々な概念を「切り出した」。そして、個体の終わりを死と名付けた。そうして死は連続的な生命現象の一過程から独立を果たしたのである。独立した死は、今や生命現象のどこにでも割当てることが可能となった。意識が死を作ったことからも自殺の発見は意識的な行為である。自意識が無ければ、死は存在せず自殺も起こり得ない。野生動物に自殺が無いのはこのためであろう。しかし、繰り返し言うが、人生の何処に自分の死を置くのかは、個体が自由に決めているのではない。それは環境が決めている。意識の発達が死を作り、環境がそれを何処に置くのかを決め、実行はその判断に反応した個体の動物的身体という意識制御系に行わせるのである。

2016年10月19日記す

0 件のコメント: